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ちょっと一休みしてコーヒーでもいかが・・・
私の勝手気ままなエッセイです。気楽にお読みください。


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[19] スローライフ   [18] ITで既存のビジネスが ...   [17] ジーン・ピットニーが ...   [16] カバー・ポップスの黄 ...   [15] エルヴィス生誕70年   [14] 永遠に記憶に残るアー ...   [13] 日本だけのヒット曲   [12] 京セラ・稲盛名誉会長   [11] 旧友   [10] 人種のるつぼアメリカ   


2008/08/24 〜 )


  [19] スローライフ 2008/08/24  

そろそろ秋の訪れか、家の中にいるとクーラーが入らないほど涼しく感じる。
今日は、1週間ぶりに自宅でホット・コーヒーを飲みながらレコードを聴いている。レコード盤に針を落とすと、何とも言えない“バンジョー”の音色が脳の中まで響く。疲れた体に心地良く流れるブルーグラス・ミュージック。
アメリカの大草原を馬に乗って駆けめぐるカウボーイ。バンジョーの音も風に乗ってそれを追いかけて行く。そよ風になびく草花、青空の中をゆっくりと流れる白い雲。緑の草木生い茂る草原の中に立つ一軒家のポーチでバンジョーを奏でる男が一人。ゆったりと時は流れバンジョーの音が草原に鳴り響く。心が癒される光景である。

今の日本は、何かが狂っている。何をそんなに急ぐのか、早足で歩く人、昼食を取るために15分並んで待ってランチを5分で食べる人、赤信号を無視して疾走する自動車など・・・の多いこと。「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く」である。
昭和30年代から40年代頃は、時の流れも、人の心も、もっとゆったりとしていたように思う。それに、助け合い、譲り合いの精神が生きていた。世の中に物が溢れ、お金を出せば何でも買える時代になり、お金だけがすべての世の中になってしまった。お金のためなら人の命を何とも思わない殺人鬼や通り魔が増えた。自殺者が年間3万人になるという。精神的に余裕がない人々が世の中に溢れ出したというのが的確かも知れない。
「急がず、慌てず、騒がず」に、もっと心にゆとりある生活が送れる国になって欲しいと願う。

スローライフが提唱されてから、少しずつではあるが賛同者が増えて実際に都会を離れ、田舎暮らしをする人がいる。
大都会に人口が集中する日本。まだまだ田舎に行けば土地が余っている。自給自足の生活ができれば、経済的な負担も少なくて済む。

便利な暮らしも良いけれど、空気の美味しい山林に囲まれて、食糧は畑を耕し自分で作る。水は井戸を掘って、電気は太陽光発電で賄う(これだけは文明の機器に頼らざるをえないが)。
また環境にもやさしい「薪でご飯を炊き、風呂を沸かし、囲炉裏で暖を取る」自給自足の生活も良いと思う今日この頃である。






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  [18] ITで既存のビジネスが破壊される  

近頃、新聞を読む人が減ってきたと聞いたことがある。インターネットの普及と共にネット上でニュースを読む人が増えてきたと言うことらしい。
確かに一部のニュースは新聞が配達されるよりも早くネット上で読むことが出来る。しかしながら、朝早く出て夜遅く帰宅する会社勤めの人にとってはまだ新聞かテレビからの情報に頼っている人が大半である。
携帯用のコンピュータが普及し何処でもインターネットと接続が可能になれば、紙媒体がどのように変化するかは判らない。
インターネットが普及し始めた頃に、ペーパーレスの時代が来て新聞や雑誌など紙媒体が無くなると言われたことがあった。20数年経った今、まだ新聞、雑誌は売れているし、本もあらゆるジャンルの出版物が出回っている。この現状を見る限りでは、紙媒体は健在である。
私の新聞の見方は、まずトップの見出しに目を通し、それからスポーツ欄を見て、再びトップから読み始めるのが習慣となっている。興味のあるものは切り取ってクリア・ファイルに保存するようにしている。同じニュースを詳しく見るにはネットで調べることがある。
切り取った記事をデスクにおいたままの状態が続くとファイルするのが面倒になるので、いずれはコンピュータのファイルに保存する予定である。見たい時にいつでも見られる。スクラップ・ファイルを何処においたか忘れて探す必要も無くなる。そう考えるとコンピュータは便利だなと思うのである。
先日、友人の柏木仁さんから「これすごいことが書いてあるよ」と言われて借りて読んだ本がある。「Google 既存ビジネスを破壊する」(佐々木俊尚著 文春新書)である。
今や、インターネットのソフトウェアーで世界をリードするマイクロ・ソフト。そのトップ、ビル・ゲイツも恐れるであろう“グーグル”のインターネット・ビジネス戦略が書かれている。
グーグルは単なる「検索エンジン」を開発した会社ではではないと言うことである。インターネット全体に関わるソフトの開発に力を入れ、収益のほとんどを研究開発に注ぎ込んでいる。また、その利益を利用者に還元すると言う経営理念が、ますます“グーグル”を大きくさせている。
中国語でコンピュータを「電脳」と書くように、まさしく「人口頭脳」であり「知能」なのである。人間のように考えたり、想像したりする事は出来ないけれど、人間がプログラミングしたことに対しては忠実にそして確実に働き我々の要望に応えてくれる。
我々インターネット利用者が便利で使いやすいソフトの開発によってネット・ビジネスが盛んになり、ネット・ショッピングが激増するであろう。
ITは確実に既存ビジネスを破壊していくのは間違いないだろう。
ITのソフト開発で先端を走っているのがこの“グーグル”である。数年後にはマイクロソフトを抜いて業界のトップに立つのはないだろうか。この本を読むんだ後の直感である。
この本を読むように薦めてくれた柏木さんは、コンピュータ及びITに関する知識は相当なものである。現在、インターネットを中高年の人々にもっと活用してもらおうとNPO法人を立ち上げるために準備をされている。
テレビが一家に数台ある時代に、インターネット人口が増え続け、コンピュータを一人一台持つ時代がやって来るであろうと考えるのは私だけであろうか。
数十年後には、インターネットの活用によって、我々が想像する以上のものが出現しているではないだろうか。

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  [17] ジーン・ピットニーが宇宙へと旅だった  

1960年代の初期に活躍したアメリカのポップ・シンガー“ジーン・ピットニー”が昨日(4月5日)滞在先のイギリスのホテルで亡くなった。65歳だった。
2006年4月4日、彼はコンサート・ツアー中で、この日はウェールズ州のセント・デイビッド・ホールで歌い喝采を浴びていた。彼がショーの最後に歌った曲は「タウン・ウィズアウト・ピティー」だった。次の朝、ウェールズの州都カーディフにあるヒルトンホテルの自分の部屋のベッドで死んでいるのを発見された。
日本では「ルイジアナ・ママ」の大ヒット(アメリカではあまりヒットしなかった)で一躍有名になったジーンは、その後も「メッカ」「オンリー・ラブ・キャン・ブレイク・ア・ハート」「リバティーバランスを撃った男」「タルサから24時間」「恋の1/2」など次々とヒットを飛ばした。60年代を代表するシンガー・ソング・ライターで、アメリカのティーンエイジャーのアイドルだった。
ジーンは、1941年2月17日、コネティカット州ハートフォードで生まれた。地元のロックビル・ハイスクールを卒業。その後ウォード・エレクトロニクス・スクールで学んだ後、バンドを結成しクラブや放送局で歌っていた。ハイスクール時代からグリー・クラブでソロをつとめたりして、音楽面での才能を発揮していた。クラブで歌っている所をレコード会社のユナイテッド・アーティストの関連会社であるミュージカー・レコードが彼をスカウトし専属契約した。
プロとして最初に認められたのは作曲の才能だった。日本で一躍有名にした「ルイジアナ・ママ」をはじめ、リッキー・ネルソンのヒット曲「ハロー・メリー・ルー」、クリスタルズの「ヒー・イズ・ア・レベル」、ロイ・オービソンとリッキー・ネルソンも歌った「今日の涙」そしてボビー・ヴィーの「ラバー・ボール」など数多くのヒット曲を書いている。
彼の歌を認めたのは、プレスリーのヒット曲を多く書いている作曲家のアーロン・シュレイダーだった。3オクターブと広い音域を持つ彼の独特の唱法でヒット曲を連発した。バラードからロックまで幅広いジャンルをこなすミュージシャンだった。彼の長年の音楽活動の功績が認められ、2002年に「ロックン・ロール・フェイム」に選ばれ殿堂入りした。
彼の死因は自然死と報道されている。現代の寿命から見れば「まだ65歳」なのに早すぎると考えるのは私だけだろうか。宇宙の彼方へ旅立ったジーンの作ったメロディーは、この地球上に永遠に残るであろう。
日本で「ルイジアナ・ママ」をカバーした“飯田久彦”はこの曲で一躍人気者になった。
数ある彼のヒット曲の中で「イフ・アイ・ディド・ノット・ハブ・ア・ダイム(恋のジュークボックス)」は、スローバラードで彼の持ち味が生かされた最高の曲。私のお奨めの1曲です。
50/60年代に活躍した音楽家がここ数年の間に相次いでこの世を去って行った。しかし、彼らが残した音楽は永遠に生き続け歌い継がれて行くのである。


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  [16] カバー・ポップスの黄金時代を築いた“漣 健児”  

1960年代は、カバー・ポップスの黄金時代であった。その黄金時代を築いた「漣 健児(サザナミ・ケンジ)」さんが、2005年6月6日膵臓ガンで亡くなった。74才であった。本名“草野昌一”。彼の父上が創業した音楽出版会社で1951年に雑誌「ミュージック・ライフ」を創刊。(私も愛読していた) 編集長を務め経営にあたる一方、1959年に新田宣夫のペンネームで「赤鼻のトナカイ」「サンタが街にやって来る」の訳詞を手がける。1960年にアメリカのポップ・シンガー“ジミー・ジョーンズ”が歌った曲「グッド・タイミング(邦題:すてきなタイミング)」で本格的にデビューした。その時からペンネームを“漣 健児”と名乗るようになった。彼は、単なる訳詞にこだわらず、印象的な英語の単語は残して、そのフレーズを生かしながら“ノリ”のいい日本語を原曲のメロディーに載せて作品を完成させた。訳詞と言うよりは全くの新しいオリジナル作品であると言える。
読売新聞7月5日号によると、カバー・ポップスの訳詞(作詞)を本格的に始めたのは、実弟の浩二さんが東京芝浦電気(現東芝EMI)のレコード部門に勤務していたことがきっかけとなった。坂本九の担当ディレクターとなった弟の浩二さんは、兄である草野昌一さんを訪ねた。当時、後発のレコード会社は、専属の作曲者が少ないこともあって洋楽を歌ってもらうことになったのである。「ミュージック・ライフ」の編集長をしていた昌一さんに、編集部に送られてくる洋楽の見本盤を聴いて選曲し、それに日本語歌詞をつけてくれるように頼んだ。こうして出来たのが「すてきなタイミング」だった。
これが大ヒットした。私がまだ中学生の頃で「オー・ユー・ニード・タイミング、ティカ・ティカ・ティカ、グッー・タイミン’タガ・タガ・タガ・タガ、この世で一番肝心なーのは、すてきなタイミング・・・」と良く口ずさんだものである。
その後も、「子供じゃないの」「すてきな16才」「ヴァケイション」「砂に消えた涙」「ナポリは恋人」(弘田三枝子)「花咲く街角」「悲しき60才」「悲しき戦場」「レッツ・ゴー物語」(坂本九)「ビキニスタイルのお嬢さん」「パイナップル・プリンセス」(田代みどり)「ルイジアナ・ママ」「コーヒー・デイト」「悲しき街角」(飯田久彦)「可愛いベイビー」(中尾ミエ)「大人になりたい」「恋の売り込み」「ロリーポップ・リップス」(伊東ゆかり)「シェリー」「電話でキッス」(ダニー飯田とパラダイスキング)「ロッカ・フラ・ベイビー」(佐々木 功)「ジェニ・ジェニ」「ラバー・ボール」(鈴木やすし)「ボサノバでキス」(梓みちよ)「レモンのキッス」(ザ・ピーナッツ)など、ここで紹介出来ないくらい数多くの作詞を手がけヒットさせた。1960年代にカバー・ポップスの全盛時代を築き上げた第一人者と言っても過言ではない。
当時中学生だった私は、歌いやすくて“ノリ”のいい言葉遣いに関心を持ち、誰がこの詞を作ったのだろうとレコードのジャケット裏に書いてある作詞者を見て“漣 健児”の名前を知ったのである。
「原詞に忠実とは言い難いが、英語の乗りに近いリズム感のある言葉遣いは、兄ならではの持ち味だった」と実弟の浩二さんは語っている。また、作詞家・漣 健児は「原詞の意味を大枠でしか理解出来なかった語学力が逆に幸いし、訳詞に自分なりの発想を持ち込めた」と、以前読売新聞の記者が取材した時に話していた。原曲の詞にこだわらずに“漣 健児” のオリジナルな発想で作られた歌詞であった。
もし、当時の東芝レコードに専属の作曲者がいたなら、実弟の浩二さんが昌一さんを訪ねることはなかっただろう。そして、カバーポップスの全盛期も来ないままにその時代は過ぎ去っていたかも知れない。
あれから40年以上経た今日、それらの曲を聴いても古さを感じさせない内容の“詩(詞)”である。これらのヒット曲を現代の若いシンガーが歌ったら再びヒットするであろうと思う。時代を超えていいものは再び甦って来るのである。

右上写真は、1958年9月に来日した「ポール・アンカ」と打ち合わせをしている漣 健児(草野昌一)さん。
*写真は、シンコー・ミュージック出版「漣 健児 カバー・パップスの時代」より抜粋。

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  [15] エルヴィス生誕70年  

エルヴィス・プレスリーが今年(2005年)で生誕70年を迎えた。
(1935年1月8日ミシシッピー州ツペロ生まれ。詳しくは当店ホームページにある“エルヴィス・プレスリー物語”をご覧下さい)

昨年は、レコード・デビューして50年だった。1954年7月にサン・レコードから「ザッツ・オーライト・ママ / ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー」でデビュー。その後RCAに移籍。1956年1月にリリースされた「ハートブレイク・ホテル」が大ヒット。ミリオンセラーとなり、一躍世界中の人気者になった。続いて「ハウンド・ドッグ」「冷たくしないで」「テディー・ベアー」「サレンダー」「イン・ザ・ゲットー」「涙のチャペル」「悲しき悪魔」など生涯で50曲のミリオンセラー・レコードの記録を樹立した。
また来年は、エルヴィスがハリウッド映画にデビューして50年を迎える。スクリーンでも非凡な才能を披露した彼は、31本の映画に出演。1作目以外はすべて主演で、エルヴィスの魅力を余すところなく見せてくれた。
デビュー作は、1956年に上映された「ラブ・ミー・テンダー(やさしく愛して)」だった。この中で歌った映画と同じタイトルの「やさしく愛して」は、ミリオンセラーとなった。翌年の1957年にパラマウント映画「監獄ロック」と「ラヴィン・ユー」の2作が上映された。この時からエルヴィス自身が主役で登場した。映画のヒットと同時に「監獄ロック」と「ラヴィン・ユー」のレコードもミリオンセラーとなった。
ここで、ムーヴィー・スター“エルヴィス・プレスリー”が出演した映画のタイトルを一挙に紹介しよう。
 
 1.「ラブ・ミー・テンダー」(1956年 20世紀フォックス)
 2.「ラヴィン・ユー」(1957年 MGM)
 3.「監獄ロック」(1957年 パラマウント)
 4.「キング・クレオール」(1958年 パラマウン)
 5.「GIブルース」(1960年 パラマウント)
 6.「フレイミング・スター」(1960年 20世紀フォックス)
 7.「ワイルド・イン・ザ・カントリー」(1961年 20世紀フォックス)
 8.「ブルー・ハワイ」(1961年 パラマウント)
 9.「フォロー・ザット・ドリーム」(1962年 ユナイテッド・アーティスト)
10.「キッド・ガラハド」(1962年 ユナイテッド・アーティスト)
11.「ガールズ・ガールズ・ガールズ」(1962年 パラマウント)
12.「ファン・イン・アカプルコ」(1963年 パラマウント)
13.「キッシン・カズン」(1963年 MGM)
14.「ビバ・ラスベガス」(1964年 MGM)
15.「ラウスタバウト」(1964年 パラマウント)
16.「ガール・ハッピー」(1965年 MGM)
17.「ティクル・ミー」(1965年 アリード・アーティスト)
18.「ハーラムスケラム」(1965年 MGM)
19.「パラダイス・ハワイアン・スタイル」(1966年 パラマウント)
20.「スピンアウト」(1966年 MGM)
21.「フランキー&ジョニー」(1966年 ユナイテッド・アーティスト)
22.「ダブル・トラブル」(1967年 MGM)
23.「クラムベイク」(1967年 ユナイテッド・アーティスト)
24.「イージー・カム、イージー・ゴー」(1967年 パラマウント)
25.「ステイ・アウェイ・ジョー」(1968年 MGM)
26.「スピードウェイ」(1968年 MGM)
27.「リブ・ア・リトル、ラブ・ア・リトル」(1968年 MGM)
28.「ザ・トラブル・ウィズ・ガールズ」(1968年 MGM)
29.「チェンジ・オブ・ハビット」(1969年 ユニバーサル)
30.「エルビス--ザッツ・ザ・ウェイ・イット・イズ」(1970年 MGM)
31.「エルヴィス・オン・ステージ」(1972年 MGM)

リストをみれば判るように1959年だけが抜けています。これはエルヴィスが徴兵で軍隊に入隊し、18カ月ドイツに駐留していたため撮影が出来なかったのである。
1977年8月16日に天国へと旅だったエルヴィス。もし、まだこの世に彼が居るとすれば今年70才になっている。恐らく、世界中の熱狂的なエルヴィス・ファンが「古希」を祝う盛大なバースデイ・パーティーを開いていることだろう。いや、本人が居なくともどこかでイベントやパーティーが行われているかも知れない。
”永遠のロックン・ローラー「エルヴィス・プレスリー」”
左上の写真は、エルヴィスのデビュー第1作の映画「ラブ・ミー・テンダー」のポスター。

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  [14] 永遠に記憶に残るアーティスト  

ハリウッドの美人女優“サンドラ・ディー”が、先日(2005年2月20日)ロサンゼルスの病院で亡くなった。63才だった。サンドラは、1959年に公開された映画「避暑地の出来事」で一躍人気スターとなった。彼女が出演した代表的な作品に61年の「9月になれば」、62年「電話にご用心」などがある。「9月になれば」「電話にご用心」で共演し、その主題歌を歌った歌手で俳優でもある“ボビー・ダーリン”と60年に結婚した。残念なことにこのゴールデンカップルは、その後離婚した。ボビーもすでに亡くなっている。彼は「ドリーム・ラバー」「スプリシュ・スプラシュ」「マック・ザ・ナイフ」などの大ヒットを飛ばした。今、ボビー・ダーリンのストーリーを描いた映画(題名は忘れてしまった)が上映されている。時間があれば見に行きたいと思っている。サンドラと「避暑地の出来事」で共演した“トロイ・ドナヒュー”も数年前に65才でこの世を去った。トロイは、その他に映画「パーム・スプリングスの週末」に出演。主題歌「恋のパーム・スプリングス」は日本で大ヒットした。
50/60年代に活躍したアメリカの大物俳優や歌手がこの世を去ると言う悲しい出来事がここ数年の間に起こった。ビートルズのリード・ギターマン“ジョージ・ハリソン”は、2001年11月29日に肺ガンで亡くなった58才だった。「腰抜け二丁拳銃」(1948年)などで笑いを振りまいた喜劇俳優の“ボブ・ホープ”が03年7月27日に100才でこの世とおさらばした。そして、ソール・ミュージックの巨匠“レイ・チャールズ”が04年6月10日に死去。73才だった。
映画「ゴッド・ファーザー」で迫力ある演技を見せた“マーロン・ブランド”は、04年7月に80才の生涯を閉じた。彼は「波止場」に続いて「ゴッド・ファザー」で2度目のアカデミー賞主演男優賞を受賞したが、「映画界のインディアンに対する扱いが不当」だと言う理由で受賞を拒否した事があった。
アメリカの黄金時代と言われた1950/60年代に活躍し、共にゴールデン・エラを築き上げたアーティスト達がこの世を去った。だからと言って、当時のアメリカン・ポップスや映画が無くなったわけではない。当時の歌や映画は、生き続けているのである。
“永遠に残るメロディーとムーヴィーは、時代を超えてすばらしい名曲や名画として現代によみがえる”

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  [13] 日本だけのヒット曲  

日本だけのヒット曲と言う洋楽が主に60年代には沢山あった。日本でヒットし、流行した歌が必ずしも本国でヒットしたとは限らないと言う事です。
例えば、「恋はすばやく」(原題"Short on love")は、1963年に大ヒットしたが、本国アメリカではヒット・チャートのベスト100にも入っていない。歌っているのは、「ガス爆発」ならぬ“ガス・バッカス”です。ガスは「ウィスッパーリング・ベル」のヒットを飛ばした“デル・バイキングス”のメンバーだった。
他にも、ニール・セダカの「恋の片道切符」、ザ・ヴェルヴェッツ「愛しのラナ」(ロイ・オービソン自作自演曲)、「恋のパーム・スプリングス」(トロイ・ドナヒュー)、ジョニー・ティロットソン「キューティー・パイ」、ジョニー・シンバル「ぼくのマシュマロちゃん」、アストロノーツ「太陽の彼方」、クリフ・リチャード「ヤング・ワン」、ヴェンチャーズ「ダイアモンド・ヘッド」、エディー・ホッジス「コーヒー・デイト」、ジャック・スコット「クライ・クライ・クライ」、リトル・リチャード「戦場に日は落ちて」、ジーン・ピットニー「ルイジアナ・ママ」、ジョニー・ディアフィールド「悲しき少年兵」などがある。それから「悲しきカンガルー」は、日本ではパット・ブーンの歌でヒットしたが、元々この曲はオーストラリアのロルフ・ハリスの自作自演でオーストラリア、イギリスで大ヒット。アメリカでは全米ヒットチャート3位を獲得している。しかし、日本でのレコードの売り上げはロルフのよりもパットの方が売れた。
逆に本国で大ヒットしたものが日本でもヒットするとは限らない。
例えば、「エル・パソ」(マーティ・ロビンス)、これなんかは当時のテレビで放映されていたあの西部劇「ローハイド」の主題歌レコードのB面に入っていた。「ユー・センド・ミー」(サム・クック)、「カンサス・シティー」(ウィルバート・ハリソン)、「かなわぬ恋」(スティーブ・ローレンス)、「マイ・ハート」(コニー・フランシス)、「真夜中のロック・パーティー」(ゲイリー・US・ポンズ)、ブレンダ・リーの「乙女の青春」など数多くの曲がある。因みにこれらの曲はすべて全米ヒット・チャート・ナンバーワンになった曲である。しかし、日本ではヒットしなかった。
日本だけのヒット曲を生み出した、当時のレコード会社の洋楽担当ディレクターやプロデューサーが日本人受けするメロディーの曲を選んで発売したのがヒットに繋がった。選曲が良かった。それに、ラジオのディスク・ジョッキーも大いに貢献したと言って良いだろう。中でも作詞を担当した“漣健児”の貢献度は大きい。以前このコーナーでも紹介したが、「子供じゃないの」「ルイジアナ・ママ」「ヴァケイション」「コーヒー・デイト」「砂に消えた涙」「シェリー」「パイナップル・プリンセス」「すてきなタイミング」など数多くの日本語の作詞を手がけた。カバー・ポップスの第一人者である。
今では日本のポップスが、海外で流行する時代なった。1963年に坂本九が歌った「スキヤキ(上を向いて歩こう)」が全米ナンバーワンになって驚いたが、今やジャパニーズ・ポップスは、外国ですごい人気である。70年代から始まったジャパニーズ・フォーク・ソングやニュー・ミュージックと言われた日本のポップスの原点は紛れもなく1950/60年代のアメリカン・ポップスである。

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  [12] 京セラ・稲盛名誉会長  

アメリカで“カズ・キムラ会計事務所を経営されている大学時代の先輩からメイルが届いた。前回の「旧友」の記事を読んで、間違いを2カ所指摘して来られた。京セラの稲盛名誉会長が推進されている稲盛哲学の塾名は“稲盛塾”ではなく正確には「盛和塾」と呼ぶそうです。もう一つは、カリフォルニア大学サクラメント校は、サンフランシコではなく「サクラメント」にあると言うご指摘を頂いた。確かに、大学の所在地はサンフランシスコ郊外のサクラメントです。サクラメントはカリフォルニア州のキャピタル(州都)で州政治の拠点でもあります。
読者の方々に、正確な情報をお伝えすべく訂正させて頂きます。
因みに、アメリカで会計士をお捜しの方はカズ・キムラ会計事務所までお問い合わせ下さい。会計事務所のウェッブ・サイトヘは、下記のマークをクリックして下さい。
[Click]
思い返せば、1980年に当時勤務していた会社の主催で文化講演会を開いた。その時の講師を務めて頂いたのが、京セラの稲盛会長と今は亡き俳優のフランキー堺さんでした。私が運転する会社の車キャデラックにお二人を乗せて、京セラが所有経営していたベバリーヒルズの「イナモリ・ジュエリー」(人工宝石店)までお連れしたことがある。25年も前のことであるが、あの時はすごく緊張していたことを思い出す。この店は、世界の有名ブランドが建ち並ぶロデオ・ドライブにあった。2度目の渡米の時(1994年)にロデオ・ドライブへ行ったが、その店はそこにはなかったと記憶している。稲盛名誉会長は現役を引退後、多方面に渡って活躍されておられます。先ほどの「盛和塾」を開き、後進の指導にあたったり、7億円の私財を投じて、児童福祉施設「京都大和の家」を京都府精華町に創設したりと精力的に活動されている。一代で売上高1兆円を超える企業を築き上げた中から生まれた経営哲学「相手を思いやる“利他の心”」を伝承すべく盛和塾を起点として、あらゆる機会をとらえて稲盛哲学を広め続けておられる。
ところで、フランキー堺さんからサイン入り色紙をもらった。その色紙には、当時NHKの大河ドラマに出演されていた時の役柄(タイトルは覚えていないが、サムライ姿)の写真が貼ってあった。いまでもその色紙(右上の画像)はもっているが、引っ越しのダンボール箱に入ったままであった。フランキーさんに怒られそうだ。
京セラのアメリカ本社はサンディゴにあって、年に数回は仕事で当地を訪れた。サンディゴは風光明媚な大変いいところです。ロスから車で1時間半から2時間ぐらいのところにあり、家族を連れて良く観光したものだ。サンディゴから南に下るともうそこにはメキシコの国境の街“ティワナ”がある。機会があればティワナの街も紹介したいと思います。
勝って気ままに、思うがままに書いていますので気楽にお読み頂ければ幸いです。

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  [11] 旧友  

先日、久しぶりに旧友と電話で話した。以前このコーナーで紹介した大学時代の同期であり、一緒にアメリカへ行った込山である。現在、ロサンゼルスでレストラン「さぬきの里」を経営している。彼の母上と奥さんの両親を訪問のために一時帰国したと言う。約1年ぶりに彼と電話で話した。彼は渡米して早32年になるという。アメリカで共同生活をしていた頃が懐かしい。思い返して見ると、飯を作るのはいつも込山だった。この頃から彼は料理が好きだったようだ。二人でシェアーしていた部屋には、知り合いからもらったテレビがあった。当時、カントリー・ミュージックの番組があり毎回欠かさずに見ていた。あのバック・オーエンズがメインホストでロイ・クラークが準ホスト役で出ていたカントリー・ミュージック・ショーである。番組のタイトルは「ヒー・ホー」だったかどうか忘れてしまったが、テレビスタジオをカントリー風にセットし毎回有名カントリー・シンガーをゲストに迎えてギターやバンジョーで演奏しながらカントリーのヒット・ソングを歌っていた。駄洒落を言ったりコメディアンを演ずるなどバック・オーエンズの魅力満載の番組で面白かった。「ジャジャ馬娘」「トゥギャザー・アゲイン」そして、ビートルズもコピーした「アクト・ナチュラリー」など多くのヒット曲を放ったバック・オーエンズは、テネシー州のナシュビル・サウンドと共にカリフォルニアのベーカース・フィールド・サウンドと呼ばれ人気があった。
もう一人の旧友からは、e-メイルが届いた。シカゴで自動車部品メーカーの社長をしている森からである。彼とは大学の空手道部の同期。大学時代の彼のガールフレンドと同期の友人の住所を教えてほしいと言う。卒業して30年以上になる。あのころの学生生活が懐かしく感じる年齢になってきたのかと思うと感慨深いものがある。しかも彼の娘が結婚すると聞くとなおさらである。数年後にはあいつも“おじいちゃん”。森と会うと思い出す曲がある。エルトン・ジョンの「クロコダイル・ロック」。ちょうど彼がロスで寝泊まりしていたボーディング・ハウス(下宿屋)へ遊びに行ったときにラジオから流れていたのがこの曲で、60年代の初期を回想させる軽快なリズムで強烈な印象が残っている。彼は、南米のアマゾンへ行ったり、インドやトルコなど秘境が好きらしい。1972年に彼がマイアミへ行った時---旅費を節約するため寝袋をもって旅行するのが彼の習慣---ある夜、浜辺で寝袋で寝ていたら木の陰から人の気配がしたらしい。彼はとっさに起きあがり空手道衣を着て「突きと蹴り」を繰り出して、おもむろに空手の演武を始めた。それを見ていた暴漢らしき男はビビッたのかその場を立ち去ったと言う話をしてくれた。確かに武道は護身術となるのである。
空手道部の先輩でサンフランシスコにあるカリフォルニア大学サクラメント校を卒業され、今はロサンゼルスで“カズ・キムラ会計事務所”を経営されている木村和司先輩もアメリカ社会に入って活躍されている。会計事務所の経営の傍ら、京セラ名誉会長が推進されている「稲盛塾」のアメリカ支部で“稲盛哲学”をアメリカ人に広めるための活動をされている。先日、仕事で東京へ行かれる途中に実家のある尼崎へ寄られた時に会う機会があった。その時ランチをご馳走になりながら、昔話に花が咲いた。
今月(10月)の中頃に、大学空手道部のOB会が堀田先輩が所有経営されているホテルで行われることになった。その時に、ニューヨークで武道の指導をしている新宅先輩がアメリカの武道家と弟子を伴って凱旋帰国されることになっている。演武を披露されると聞いているので今から楽しみだ。
まだまだ多くの旧友達がいるが、連絡の取れないものもいる。どうしているのか、先ほどの森ではないが一度会って酒でも酌み交わしたいと思う今日この頃である。
旧友がいるというのはいいものである。いつまでも「俺、お前」の仲でいられる。年を取るにつれて、真の友人は作りにくいと言う。幼馴染みや学生時代に青春を共に過ごした仲間達を大切にしたいものである。

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  [10] 人種のるつぼアメリカ  

ご存じの通り、アメリカはあらゆる国からの移民が集まって出来た国である。ニューヨーク、ロサンゼルス、シカゴ、サンフランシスコなど大都市圏などは人種のるつぼと言われるくらい様々な国から移民でやってきた人々が生活をしている。それ故に、昔から人種差別が大きな問題となっていた。黒人に対する人種差別は、昔ほどではないとは言え今も続いている。ロサンゼルスでは、戦後大きな暴動が2回あった。1971年に起こったワッツ(ロスの黒人街)暴動ともう一回はダウンタウンにほど近いロスの市街地で起こった暴動。原因は2つとも黒人に対する人種偏見であった。2回目のロスの市街地で起こった暴動の原因は、交通違反車を追跡していたパトカーがその車を止めて、運転していた黒人を引きずりおろして白人の警察官3人で殴る蹴るの暴行を働いた。その模様をビデをで盗み撮りされ、テレビで放映されたのがきっかけで黒人が怒り出した。裁判が行われた結果、白人の警察官は無罪になった。これを聴いた黒人が怒り爆発して集団で暴動を起こしたのである。この暴動はテレビで見ていたので良く覚えている。近くにあるコリアン・タウン(韓国人街)までもが襲撃の的となった。トラックを運転していた白人は、引きずり降ろされ、黒人から殴る蹴るの暴行を受けたシーンがテレビに映し出された。それは大変悲惨な光景だった。
私自身も、人種的差別を受けた経験がある。1972年のことである。渡米して数ヶ月、友人3,4人でサンタ・モニカのコーヒー・ショップへ入った時、5分、10分経っても注文を取りに来ないのである。我々よりも後に来た白人のオーダーを先に取り、我々が無視されたことがある。それともう一回は、1974年にそれまで住んでいたところが手狭になったので、部屋を探していたところvacancy(空き部屋あり)のサインを見つけたので、そこのマネジャーに部屋を見せてほしいと頼んだ。その白人のマネジャーは私の顔を見るなり「空き部屋はない」と断れた。ロサンゼルス郊外のアルハンブラやサンゲーブル市あたりは1970年代前半は、白人が多く住んでいた地域で、オリエンタル(東洋人)は少数民族であった。まだ白人至上主義がはびこっていた時代であった。
1984年に帰国、東京に日本本社があった米系企業で10年間勤務した後、1994年にロスにある某会社で働くことになり再渡米した。ロサンゼルス空港に降り立ったその時「どこの国に来たのか、ここはアメリカ?」と思わせるほどオリエンタル・ピープルが多かった。今やロサンゼルスは一部の地域を除いて、アジヤの街と化している。チャイニーズ、コリアン、ベトナミーズ、フィリピーノなどオリエンタルの人口が急増していた。最初に渡米した1970年代頃のフリーウェイ(無料高速道路)は、あまり車が走ってなかった。それと比べて、2度目に渡米した1990年代は人口の増加に伴って車が増え一日中渋滞が続いていた。私が住んでいたウォルナッツ市からダウンタウンまで空いてる時は30分ぐらいで着くのですが、朝の通勤と帰りのラッシュ時には1時間かかることもあった。今やロスアンゼルスでは、アジアの人口がすごい勢いでのびている。私が住んでいたウォルナッツの家を売却するときのオープン・ハウスに訪れた半数以上がチャイニーズだった。結局、カナダのバンクーバーから来たチャイニーズが私の家を買った。それから、キューバや中米、主にメキシコ系移民のスパニッシュ系アメリカ人(スペイン語を話すラテン系の人種のことをヒスパニックと呼ぶ)の人口が黒人を抜いて白人に次ぐ人口構成になったと聞いた。その昔、白人の買い物客でにぎわった街、ダウンタウンは今やメキシコ人街に変わってしまった。1940年代から60年代にアメリカ文化を構築し黄金時代を築いた白人社会は、このロサンゼルスにおいては崩壊しつつある。ヒスパニックの人口増加と共にアジアのパワーがすごい勢いで伸びてきたのである。

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