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ちょっと一休みしてコーヒーでもいかが・・・
私の勝手気ままなエッセイです。気楽にお読みください。


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[23] アメリカン・ポップス ...   [22] ハワイアン・ミュージ ...   [21] 母の日に思う   [20] 関西加州会   [19] スローライフ   [18] ITで既存のビジネスが ...   [17] ジーン・ピットニーが ...   [16] カバー・ポップスの黄 ...   [15] エルヴィス生誕70年   [14] 永遠に記憶に残るアー ...   


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  [23] アメリカン・ポップスに夢中になった頃  

その昔、テレビが一般家庭に普及する前は、ラジオが唯一の情報源だった。
1950年代、ラジオから流れてくるものは、歌謡曲と民謡、そして浪曲や落語もやっていた。当時ラジオの人気番組は、都蝶々と南都雄二の「夫婦善哉」や花菱アチャコ、浪速千栄子の「お父さんはお人好し」そしてNHK「のど自慢大会」などがあった。

1960年代のはじめ、私が中学生だった頃にラジオからアメリカン・ポップスが流れていた。軽快なメロディーで、ひたすら明るく元気づけてくれるものだった。それは青春讃歌だった。それからというもの、洋楽の番組に夢中になり、アメリカン・ポップスにのめり込んで行った。

レコードがなかなか買えない時代に、せめて曲名と歌手の名前ぐらいは覚えておきたいと思いノートに書き取ったりした。 しばらくして、ヒットチャートを付けるようになり、毎週入れ替わる順位に一喜一憂しながら書いたものだった。
当時は、ラジオでアメリカン・ポップスを流す番組がかなりあった。「L盤アワー」(コロンビア)、「S盤アワー」(ビクター)、「P盤アワー」(ポリドール)、「魅惑のリズム」そして「ユア・ヒット・パレード」など。
中でも毎週欠かさず聴いていたのが「森永キャンディー・ベスト・ヒット・パレード」だった。DJの高崎一郎さんの軽妙な語り口に耳を傾けて聴いていた。 歌手の出身地やデビューのきっかけなどエピソードを紹介していたのを興味津々に聴き入った。
この頃、「恋の売り込み」(エディー・ホッジス)、「ミスター・ベースマン」(ジョニー・シンバル)、「シェリー」(フォー・シーズンズ)などがトップテンに入っていた。

ところが、私が聴き初めてから1年も経ない内にこの番組を流していたラジオ京都での放送が終了したのだった。毎週楽しみにしていたのに残念だった。これに替わって「9500万人のポピュラー・リクエスト」が始まった。 DJは小島正雄さんでした。この頃から、ビートルズがヒット・パレードを賑わすようになった。

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  [22] ハワイアン・ミュージック  

レコードやCDを聴いていて、同じ曲を何度も流し続けることがある。若い頃は、気に入った曲があると歌詞を覚えるまで聴き続けたものだ。レコード盤だと摩耗してくるが、CDなら何度聴いてもそういう心配はない。

夏が近づいてきたからというわけではないが、最近良く聴くのが、ハワイのシンガー「Sistah Robi」と「Ekolu」のCDアルバム。2000年にアメリカから日本へ帰国する途中、1週間ハワイに滞在した。その時にCDを10枚ほど買った。その中でこれが特に好きなアルバムである。

Sistah Robiのアルバムの中で「Ku’u Hoa」「Pi’i Mai Ka Nalu」「Kaua’i Nani La」「Makua」「Ka Opae」が好きで、何度も続けて聴いている。
ハワイ語(ポリネシア語)で歌うロビの声とこのメロディーが、ハワイの薄黄緑色の透き通った美しい海を思い出させる。

「Ekolu」のアルバムは、アコースティック・サウンドで3人グループ。
リードボーカルのLukela Kealanの声は心が和む。
「ダウン・イン・ザ・ヴァリー」「スタック・オン・ユー「ビューティフル」「レット・ミー・ビ・ゼアー」はいい歌だ。アルバムの最後に入っている「スラック・キー」はインストルメンタルで、12弦ギターの演奏が素晴らしい。

私はハワイ語は分からないが、音楽は理屈ではなく感性で聴くもの。歌詞の意味が分からなくても歌手の感情が聴き手に伝わってくる。私はそれでいいと思っている。何度も聴いている内に歌詞の意味を知りたくなったら調べればいいのだ。歌詞が理解できれば、その楽曲がより深く自分の感情を揺さぶるものになるだろう。

因みに「ポリネシア語(ハワイ語)」を調べようとパソコンで検索した。残念ながら私が期待しているものはなかったが、岐阜県在住の主婦が管理人のウェブサイト「ハワイ語が知りたい」に興味深い次のような解説があったので引用させてもらった。

―――東ポリネシア語のグループに属するハワイ語は、イースター島、クック島、タヒチ、ニュージーランドで使われるマオリ語の親類と言える言語です。
最初にハワイ島に上陸したのはマルケーサス諸島から来たマルケーサス人であると言われています。ついでタヒチからも渡来。以来、約数千年の間にハワイ語は独自の発達を遂げます。
ハワイアン・ソングは人を惹きつける魅力があります。そんなハワイアン・ソングに使われるハワイ語は非常に美しい言語と言えます。
ハワイ語は、多数存在するポリネシア系言語と同じように本来文字で表現することはありませんでした。その言語を英語のアルファベットを用いてハワイ語を表記したのは、キリスト教の布教のために渡来したヨーロッパの宣教師たちであったと言われています。―――

興味のある方は下記をクリックして
「ハワイ語を知りたい」のウエブサイトヘどうぞ
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  [21] 母の日に思う  

今日は、午前中歯科医ヘ行き、その後「花」を買って帰った。花を買うことがめったにない私は、明日の「母の日」のために久しぶりに花屋へ行った。
妻への感謝の気持ちをこの花に託して・・・。日頃、口に出して言えないことを、この日だけは私に替わって『花』が語ってくれる。
一日早いが、カードに一文書き添えて、ダイニング・テーブルの上にさりげなく置いて、妻が気づくのを待つ。直接渡せばいいものを、照れくさいのかそれが出来ない。

今年で結婚35周年になる。35年も一緒に生活しているから、お互いに何でも分かり合えていると思っているが、以外に分かっていないのが夫婦であるとつくづく思う。自分の親とよりも長く生活を共にしてきたのだから「理解して当然」と思うなかれ。
常日頃から、夫婦の会話を交わしていないと思わぬところで足をすくわれたり、しっぺ返しを食らうことがある。会話をしていて意見が別れることも多々ある。
しかし、いい方向へ導くための議論なら話し合わないといけないのであるが、自分の意見が通らないと話が途中で終わってしまうこともたびたびあった。
頑固な亭主関白もソコソコにしておかないと、いま増えている「熟年離婚」に成りかねない。

最近、日本でも離婚率が高くなっているという。
厚生労働省によると人口千人あたりの世界の離婚率トップはロシアで4.51% 2位のアメリカが4.45%、3位イギリスが3%、そして、日本とドイツ、フランスが同じくらいで2%。イタリアは、0.7%と以外に少ない。
一方、47都道府県の中で離婚率が最も高いのが沖縄 、続いて大阪、北海道。 逆に離婚率が低いのが新潟、島根、富山、石川となっており、何故かは分からないが日本海側が多いのも特徴のようだ。

生まれも育ちも違う男と女が一緒になって生活を共にしていくには、「思いやり」と「譲り合い」の精神が必要だ。こんな私が言うのも、おこがましいですが、夫婦のどちらか一方が重荷を背負うのではなく、お互いの役割を認識し、足りないところは補い合い、二人で協力し合って人生を歩んで行くことが幸せと繋がり、結果的に離婚が減ると思うが・・・。

幼い子供がいる夫婦が離婚すると、その子が不憫である。親の身勝手な振る舞いで、子供たちが犠牲となる。

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  [20] 関西加州会  

昨日(4月17日)、大阪市北区にあるレストランで第10回「関西加州会」の懇親会が行われ、在米日本企業の元駐在員25名とそのご夫人6名の計31人が集まった。
米国カリフォルニア州ロサンゼルスやサンフランシスコの在米日本企業で活躍された方々の会である。ほとんどの方が社長、支店長など現地の責任者を勤められ、主に80年代、90年代にアメリカでビジネスをしておられた方である。
今は、日本本社に戻られた方、自分の会社を立ち上げた方などそれぞれの分野で活躍されておられます。すでに引退された方もおられた。ロサンゼルスで仕事をしていた私も今回初めて参加させてもらった。懇親会では、一人づつ自己紹介をし、アメリカでの昔話に花が咲いた。
この会は、元米国住友商事ロサンゼルスの支店長をされていた田渕さんが幹事となって、いろいろとお世話をして頂いた。
会場は「味の花菱」で、この店のオーナーもロサンゼルスに店を構えていた。

70年代から80年代初期は、アメリカに進出した多くの日本企業はカリフォルニア州に米国本社を設立する会社がほとんどであった。80年代当時、カリフォルニア州はユニタリー・タックスーーー(カリフォルニア州の税法で州外の関係会社の所得も合算し、課税所得を計算する方式を採用。本社利益が州税の課税対象になる可能性があり. 州税務当局の税務調査が、日本本社にまで及ぶことがある)ーーーを導入したこともひとつの要因と思われるが、80年代中頃からニューヨーク、シカゴなどに本社を移す企業が増え、90年代には全米へと広がっていった。
現地での生産活動も開始。いち早く、73年にキッコーマンはウィスコンシン州に醤油の生産工場を設立。トヨタはケンタッキー州、ニッサンはテネシー州、ホンダはオハイオ州と各社の現地生産が稼働した時代でもあった。
特に80年代は、アメリカ50州に日本企業がいないところはないというくらい隆盛を極めた時代で、ハーバード大学名誉教授エズラ・ヴォーゲル氏が書いた「ジャパン・アズ・ナンバーワン」がベストセラーとなった。

現在では、不況の煽りで在米日本企業もアメリカから撤退し激減したようである。ロサンゼルスにある「リトル・トーキョウ」のシンボル的存在であった「ニューオータニ・ホテル」も売却され名前が変わってしまった。
「リトル・トーキョウは韓国人の店が増え、当時の様相とはかなり変化した」と今回東京から参加された元ニューオータニ・ロサンゼルスの現地責任者で現在、グランビスタホテル&リゾート社長の佐々木成人さんが言っておられた。

私の大学時代の同期で空手部で同じ釜の飯を食った森がシカゴの自動車部品製造販売会社で社長をしている。この不況で工場の人員削減を余儀なくされ苦労したようである。同じく大学同期でロスの郊外ガーディナ市でレストラン「さぬきの里」を経営している込山も、日本企業のお客が減ったと言っていた。日本食ブームも加勢しアメリカ人の客が増えたそうである。

しかし、バイタリティーのある日本の企業人は、これくらいの不況ではへこたれない。70年代のドル・ショック、オイルショックを切り抜け、90年代初期に起きたバブル崩壊にも立ち直った日本企業が、再び世界を席巻する日がやって来るだろう。



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  [19] スローライフ  

そろそろ秋の訪れか、家の中にいるとクーラーがいらないど涼しく感じる。
今日は、1週間ぶりに自宅でホット・コーヒーを飲みながらレコードを聴いている。レコード盤に針を落とすと、何とも言えない“バンジョー”の音色が脳の中まで響く。疲れた体に心地良く流れるブルーグラス・ミュージック。
アメリカの大草原を馬に乗って駆けめぐるカウボーイ。バンジョーの音も風に乗ってそれを追いかけて行く。そよ風になびく草花、青空の中をゆっくりと流れる白い雲。緑の草木生い茂る草原の中に立つ一軒家のポーチでバンジョーを奏でる男が一人。ゆったりと時は流れバンジョーの音が草原に鳴り響く。心が癒される光景である。

今の日本は、何かが狂っている。何をそんなに急ぐのか、早足で歩く人、昼食を取るために15分並んで待ってランチを5分で食べる人、赤信号を無視して疾走する自動車など・・・の多いこと。「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く」である。
昭和30年代から40年代頃は、時の流れも、人の心も、もっとゆったりとしていたように思う。それに、助け合い、譲り合いの精神が生きていた。世の中に物が溢れ、お金を出せば何でも買える時代になり、お金だけがすべての世の中になってしまった。お金のためなら人の命を何とも思わない殺人鬼や通り魔が増えた。自殺者が年間3万人になるという。精神的に余裕がない人々が世の中に溢れ出したというのが的確かも知れない。
「急がず、慌てず、騒がず」に、もっと心にゆとりある生活が送れる国になって欲しいと願う。

スローライフが提唱されてから、少しずつではあるが賛同者が増えて実際に都会を離れ、田舎暮らしをする人がいる。
大都会に人口が集中する日本。まだまだ田舎に行けば土地が余っている。自給自足の生活ができれば、経済的な負担も少なくて済む。

便利な暮らしも良いけれど、空気の美味しい山林に囲まれて、食糧は畑を耕し自分で作る。水は井戸を掘って、電気は太陽光発電で賄う(これだけは文明の機器に頼らざるをえないが)。
また環境にもやさしい「薪でご飯を炊き、風呂を沸かし、囲炉裏で暖を取る」自給自足の生活も良いと思う今日この頃である。






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  [18] ITで既存のビジネスが破壊される  

近頃、新聞を読む人が減ってきたと聞いたことがある。インターネットの普及と共にネット上でニュースを読む人が増えてきたと言うことらしい。
確かに一部のニュースは新聞が配達されるよりも早くネット上で読むことが出来る。しかしながら、朝早く出て夜遅く帰宅する会社勤めの人にとってはまだ新聞かテレビからの情報に頼っている人が大半である。
携帯用のコンピュータが普及し何処でもインターネットと接続が可能になれば、紙媒体がどのように変化するかは判らない。
インターネットが普及し始めた頃に、ペーパーレスの時代が来て新聞や雑誌など紙媒体が無くなると言われたことがあった。20数年経った今、まだ新聞、雑誌は売れているし、本もあらゆるジャンルの出版物が出回っている。この現状を見る限りでは、紙媒体は健在である。
私の新聞の見方は、まずトップの見出しに目を通し、それからスポーツ欄を見て、再びトップから読み始めるのが習慣となっている。興味のあるものは切り取ってクリア・ファイルに保存するようにしている。同じニュースを詳しく見るにはネットで調べることがある。
切り取った記事をデスクにおいたままの状態が続くとファイルするのが面倒になるので、いずれはコンピュータのファイルに保存する予定である。見たい時にいつでも見られる。スクラップ・ファイルを何処においたか忘れて探す必要も無くなる。そう考えるとコンピュータは便利だなと思うのである。
先日、友人の柏木仁さんから「これすごいことが書いてあるよ」と言われて借りて読んだ本がある。「Google 既存ビジネスを破壊する」(佐々木俊尚著 文春新書)である。
今や、インターネットのソフトウェアーで世界をリードするマイクロ・ソフト。そのトップ、ビル・ゲイツも恐れるであろう“グーグル”のインターネット・ビジネス戦略が書かれている。
グーグルは単なる「検索エンジン」を開発した会社ではではないと言うことである。インターネット全体に関わるソフトの開発に力を入れ、収益のほとんどを研究開発に注ぎ込んでいる。また、その利益を利用者に還元すると言う経営理念が、ますます“グーグル”を大きくさせている。
中国語でコンピュータを「電脳」と書くように、まさしく「人口頭脳」であり「知能」なのである。人間のように考えたり、想像したりする事は出来ないけれど、人間がプログラミングしたことに対しては忠実にそして確実に働き我々の要望に応えてくれる。
我々インターネット利用者が便利で使いやすいソフトの開発によってネット・ビジネスが盛んになり、ネット・ショッピングが激増するであろう。
ITは確実に既存ビジネスを破壊していくのは間違いないだろう。
ITのソフト開発で先端を走っているのがこの“グーグル”である。数年後にはマイクロソフトを抜いて業界のトップに立つのはないだろうか。この本を読むんだ後の直感である。
この本を読むように薦めてくれた柏木さんは、コンピュータ及びITに関する知識は相当なものである。現在、インターネットを中高年の人々にもっと活用してもらおうとNPO法人を立ち上げるために準備をされている。
テレビが一家に数台ある時代に、インターネット人口が増え続け、コンピュータを一人一台持つ時代がやって来るであろうと考えるのは私だけであろうか。
数十年後には、インターネットの活用によって、我々が想像する以上のものが出現しているではないだろうか。

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  [17] ジーン・ピットニーが宇宙へと旅だった  

1960年代の初期に活躍したアメリカのポップ・シンガー“ジーン・ピットニー”が昨日(4月5日)滞在先のイギリスのホテルで亡くなった。65歳だった。
2006年4月4日、彼はコンサート・ツアー中で、この日はウェールズ州のセント・デイビッド・ホールで歌い喝采を浴びていた。彼がショーの最後に歌った曲は「タウン・ウィズアウト・ピティー」だった。次の朝、ウェールズの州都カーディフにあるヒルトンホテルの自分の部屋のベッドで死んでいるのを発見された。
日本では「ルイジアナ・ママ」の大ヒット(アメリカではあまりヒットしなかった)で一躍有名になったジーンは、その後も「メッカ」「オンリー・ラブ・キャン・ブレイク・ア・ハート」「リバティーバランスを撃った男」「タルサから24時間」「恋の1/2」など次々とヒットを飛ばした。60年代を代表するシンガー・ソング・ライターで、アメリカのティーンエイジャーのアイドルだった。
ジーンは、1941年2月17日、コネティカット州ハートフォードで生まれた。地元のロックビル・ハイスクールを卒業。その後ウォード・エレクトロニクス・スクールで学んだ後、バンドを結成しクラブや放送局で歌っていた。ハイスクール時代からグリー・クラブでソロをつとめたりして、音楽面での才能を発揮していた。クラブで歌っている所をレコード会社のユナイテッド・アーティストの関連会社であるミュージカー・レコードが彼をスカウトし専属契約した。
プロとして最初に認められたのは作曲の才能だった。日本で一躍有名にした「ルイジアナ・ママ」をはじめ、リッキー・ネルソンのヒット曲「ハロー・メリー・ルー」、クリスタルズの「ヒー・イズ・ア・レベル」、ロイ・オービソンとリッキー・ネルソンも歌った「今日の涙」そしてボビー・ヴィーの「ラバー・ボール」など数多くのヒット曲を書いている。
彼の歌を認めたのは、プレスリーのヒット曲を多く書いている作曲家のアーロン・シュレイダーだった。3オクターブと広い音域を持つ彼の独特の唱法でヒット曲を連発した。バラードからロックまで幅広いジャンルをこなすミュージシャンだった。彼の長年の音楽活動の功績が認められ、2002年に「ロックン・ロール・フェイム」に選ばれ殿堂入りした。
彼の死因は自然死と報道されている。現代の寿命から見れば「まだ65歳」なのに早すぎると考えるのは私だけだろうか。宇宙の彼方へ旅立ったジーンの作ったメロディーは、この地球上に永遠に残るであろう。
日本で「ルイジアナ・ママ」をカバーした“飯田久彦”はこの曲で一躍人気者になった。
数ある彼のヒット曲の中で「イフ・アイ・ディド・ノット・ハブ・ア・ダイム(恋のジュークボックス)」は、スローバラードで彼の持ち味が生かされた最高の曲。私のお奨めの1曲です。
50/60年代に活躍した音楽家がここ数年の間に相次いでこの世を去って行った。しかし、彼らが残した音楽は永遠に生き続け歌い継がれて行くのである。


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  [16] カバー・ポップスの黄金時代を築いた“漣 健児”  

1960年代は、カバー・ポップスの黄金時代であった。その黄金時代を築いた「漣 健児(サザナミ・ケンジ)」さんが、2005年6月6日膵臓ガンで亡くなった。74才であった。本名“草野昌一”。彼の父上が創業した音楽出版会社で1951年に雑誌「ミュージック・ライフ」を創刊。(私も愛読していた) 編集長を務め経営にあたる一方、1959年に新田宣夫のペンネームで「赤鼻のトナカイ」「サンタが街にやって来る」の訳詞を手がける。1960年にアメリカのポップ・シンガー“ジミー・ジョーンズ”が歌った曲「グッド・タイミング(邦題:すてきなタイミング)」で本格的にデビューした。その時からペンネームを“漣 健児”と名乗るようになった。彼は、単なる訳詞にこだわらず、印象的な英語の単語は残して、そのフレーズを生かしながら“ノリ”のいい日本語を原曲のメロディーに載せて作品を完成させた。訳詞と言うよりは全くの新しいオリジナル作品であると言える。
読売新聞7月5日号によると、カバー・ポップスの訳詞(作詞)を本格的に始めたのは、実弟の浩二さんが東京芝浦電気(現東芝EMI)のレコード部門に勤務していたことがきっかけとなった。坂本九の担当ディレクターとなった弟の浩二さんは、兄である草野昌一さんを訪ねた。当時、後発のレコード会社は、専属の作曲者が少ないこともあって洋楽を歌ってもらうことになったのである。「ミュージック・ライフ」の編集長をしていた昌一さんに、編集部に送られてくる洋楽の見本盤を聴いて選曲し、それに日本語歌詞をつけてくれるように頼んだ。こうして出来たのが「すてきなタイミング」だった。
これが大ヒットした。私がまだ中学生の頃で「オー・ユー・ニード・タイミング、ティカ・ティカ・ティカ、グッー・タイミン’タガ・タガ・タガ・タガ、この世で一番肝心なーのは、すてきなタイミング・・・」と良く口ずさんだものである。
その後も、「子供じゃないの」「すてきな16才」「ヴァケイション」「砂に消えた涙」「ナポリは恋人」(弘田三枝子)「花咲く街角」「悲しき60才」「悲しき戦場」「レッツ・ゴー物語」(坂本九)「ビキニスタイルのお嬢さん」「パイナップル・プリンセス」(田代みどり)「ルイジアナ・ママ」「コーヒー・デイト」「悲しき街角」(飯田久彦)「可愛いベイビー」(中尾ミエ)「大人になりたい」「恋の売り込み」「ロリーポップ・リップス」(伊東ゆかり)「シェリー」「電話でキッス」(ダニー飯田とパラダイスキング)「ロッカ・フラ・ベイビー」(佐々木 功)「ジェニ・ジェニ」「ラバー・ボール」(鈴木やすし)「ボサノバでキス」(梓みちよ)「レモンのキッス」(ザ・ピーナッツ)など、ここで紹介出来ないくらい数多くの作詞を手がけヒットさせた。1960年代にカバー・ポップスの全盛時代を築き上げた第一人者と言っても過言ではない。
当時中学生だった私は、歌いやすくて“ノリ”のいい言葉遣いに関心を持ち、誰がこの詞を作ったのだろうとレコードのジャケット裏に書いてある作詞者を見て“漣 健児”の名前を知ったのである。
「原詞に忠実とは言い難いが、英語の乗りに近いリズム感のある言葉遣いは、兄ならではの持ち味だった」と実弟の浩二さんは語っている。また、作詞家・漣 健児は「原詞の意味を大枠でしか理解出来なかった語学力が逆に幸いし、訳詞に自分なりの発想を持ち込めた」と、以前読売新聞の記者が取材した時に話していた。原曲の詞にこだわらずに“漣 健児” のオリジナルな発想で作られた歌詞であった。
もし、当時の東芝レコードに専属の作曲者がいたなら、実弟の浩二さんが昌一さんを訪ねることはなかっただろう。そして、カバーポップスの全盛期も来ないままにその時代は過ぎ去っていたかも知れない。
あれから40年以上経た今日、それらの曲を聴いても古さを感じさせない内容の“詩(詞)”である。これらのヒット曲を現代の若いシンガーが歌ったら再びヒットするであろうと思う。時代を超えていいものは再び甦って来るのである。

右上写真は、1958年9月に来日した「ポール・アンカ」と打ち合わせをしている漣 健児(草野昌一)さん。画像をクリックすると拡大したものがご覧頂けます。
*写真は、シンコー・ミュージック出版「漣 健児 カバー・パップスの時代」より抜粋。

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  [15] エルヴィス生誕70年  

エルヴィス・プレスリーが今年(2005年)で生誕70年を迎えた。
(1935年1月8日ミシシッピー州ツペロ生まれ。詳しくは当店ホームページにある“エルヴィス・プレスリー物語”をご覧下さい)

昨年は、レコード・デビューして50年だった。1954年7月にサン・レコードから「ザッツ・オーライト・ママ / ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー」でデビュー。その後RCAに移籍。1956年1月にリリースされた「ハートブレイク・ホテル」が大ヒット。ミリオンセラーとなり、一躍世界中の人気者になった。続いて「ハウンド・ドッグ」「冷たくしないで」「テディー・ベアー」「サレンダー」「イン・ザ・ゲットー」「涙のチャペル」「悲しき悪魔」など生涯で50曲のミリオンセラー・レコードの記録を樹立した。
また来年は、エルヴィスがハリウッド映画にデビューして50年を迎える。スクリーンでも非凡な才能を披露した彼は、31本の映画に出演。1作目以外はすべて主演で、エルヴィスの魅力を余すところなく見せてくれた。
デビュー作は、1956年に上映された「ラブ・ミー・テンダー(やさしく愛して)」だった。この中で歌った映画と同じタイトルの「やさしく愛して」は、ミリオンセラーとなった。翌年の1957年にパラマウント映画「監獄ロック」と「ラヴィン・ユー」の2作が上映された。この時からエルヴィス自身が主役で登場した。映画のヒットと同時に「監獄ロック」と「ラヴィン・ユー」のレコードもミリオンセラーとなった。
ここで、ムーヴィー・スター“エルヴィス・プレスリー”が出演した映画のタイトルを一挙に紹介しよう。
 
 1.「ラブ・ミー・テンダー」(1956年 20世紀フォックス)
 2.「ラヴィン・ユー」(1957年 MGM)
 3.「監獄ロック」(1957年 パラマウント)
 4.「キング・クレオール」(1958年 パラマウン)
 5.「GIブルース」(1960年 パラマウント)
 6.「フレイミング・スター」(1960年 20世紀フォックス)
 7.「ワイルド・イン・ザ・カントリー」(1961年 20世紀フォックス)
 8.「ブルー・ハワイ」(1961年 パラマウント)
 9.「フォロー・ザット・ドリーム」(1962年 ユナイテッド・アーティスト)
10.「キッド・ガラハド」(1962年 ユナイテッド・アーティスト)
11.「ガールズ・ガールズ・ガールズ」(1962年 パラマウント)
12.「ファン・イン・アカプルコ」(1963年 パラマウント)
13.「キッシン・カズン」(1963年 MGM)
14.「ビバ・ラスベガス」(1964年 MGM)
15.「ラウスタバウト」(1964年 パラマウント)
16.「ガール・ハッピー」(1965年 MGM)
17.「ティクル・ミー」(1965年 アリード・アーティスト)
18.「ハーラムスケラム」(1965年 MGM)
19.「パラダイス・ハワイアン・スタイル」(1966年 パラマウント)
20.「スピンアウト」(1966年 MGM)
21.「フランキー&ジョニー」(1966年 ユナイテッド・アーティスト)
22.「ダブル・トラブル」(1967年 MGM)
23.「クラムベイク」(1967年 ユナイテッド・アーティスト)
24.「イージー・カム、イージー・ゴー」(1967年 パラマウント)
25.「ステイ・アウェイ・ジョー」(1968年 MGM)
26.「スピードウェイ」(1968年 MGM)
27.「リブ・ア・リトル、ラブ・ア・リトル」(1968年 MGM)
28.「ザ・トラブル・ウィズ・ガールズ」(1968年 MGM)
29.「チェンジ・オブ・ハビット」(1969年 ユニバーサル)
30.「エルビス--ザッツ・ザ・ウェイ・イット・イズ」(1970年 MGM)
31.「エルヴィス・オン・ステージ」(1972年 MGM)

リストをみれば判るように1959年だけが抜けています。これはエルヴィスが徴兵で軍隊に入隊し、18カ月ドイツに駐留していたため撮影が出来なかったのである。
1977年8月16日に天国へと旅だったエルヴィス。もし、まだこの世に彼が居るとすれば今年70才になっている。恐らく、世界中の熱狂的なエルヴィス・ファンが「古希」を祝う盛大なバースデイ・パーティーを開いていることだろう。いや、本人が居なくともどこかでイベントやパーティーが行われているかも知れない。
”永遠のロックン・ローラー「エルヴィス・プレスリー」”
左上の写真は、エルヴィスのデビュー第1作の映画「ラブ・ミー・テンダー」のポスター。

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  [14] 永遠に記憶に残るアーティスト  

ハリウッドの美人女優“サンドラ・ディー”が、先日(2005年2月20日)ロサンゼルスの病院で亡くなった。63才だった。サンドラは、1959年に公開された映画「避暑地の出来事」で一躍人気スターとなった。彼女が出演した代表的な作品に61年の「9月になれば」、62年「電話にご用心」などがある。「9月になれば」「電話にご用心」で共演し、その主題歌を歌った歌手で俳優でもある“ボビー・ダーリン”と60年に結婚した。残念なことにこのゴールデンカップルは、その後離婚した。ボビーもすでに亡くなっている。彼は「ドリーム・ラバー」「スプリシュ・スプラシュ」「マック・ザ・ナイフ」などの大ヒットを飛ばした。今、ボビー・ダーリンのストーリーを描いた映画(題名は忘れてしまった)が上映されている。時間があれば見に行きたいと思っている。サンドラと「避暑地の出来事」で共演した“トロイ・ドナヒュー”も数年前に65才でこの世を去った。トロイは、その他に映画「パーム・スプリングスの週末」に出演。主題歌「恋のパーム・スプリングス」は日本で大ヒットした。
50/60年代に活躍したアメリカの大物俳優や歌手がこの世を去ると言う悲しい出来事がここ数年の間に起こった。ビートルズのリード・ギターマン“ジョージ・ハリソン”は、2001年11月29日に肺ガンで亡くなった58才だった。「腰抜け二丁拳銃」(1948年)などで笑いを振りまいた喜劇俳優の“ボブ・ホープ”が03年7月27日に100才でこの世とおさらばした。そして、ソール・ミュージックの巨匠“レイ・チャールズ”が04年6月10日に死去。73才だった。
映画「ゴッド・ファーザー」で迫力ある演技を見せた“マーロン・ブランド”は、04年7月に80才の生涯を閉じた。彼は「波止場」に続いて「ゴッド・ファザー」で2度目のアカデミー賞主演男優賞を受賞したが、「映画界のインディアンに対する扱いが不当」だと言う理由で受賞を拒否した事があった。
アメリカの黄金時代と言われた1950/60年代に活躍し、共にゴールデン・エラを築き上げたアーティスト達がこの世を去った。だからと言って、当時のアメリカン・ポップスや映画が無くなったわけではない。当時の歌や映画は、生き続けているのである。
“永遠に残るメロディーとムーヴィーは、時代を超えてすばらしい名曲や名画として現代によみがえる”

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