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エルビス・プレスリー物語


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[39] ハリウッドに進出、パ ...   [38] 不運な出来事   [37] サリヴァンが異例の声 ...   [36] テレビでは、ヒップの ...   [35] エド・サリヴァン・シ ...   [34] プレスリーのファンが ...   [33] スティーブ・アレン・ ...   [32] 集中攻撃と非難を浴び ...   [31] 人気と共に非行者の烙 ...   [30] ティーンエイジャーの ...   


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  [39] ハリウッドに進出、パラマウント社と契約  

最初は多くの観客を魅了したが、ラスベガスの観客は、年寄りが多く保守的な人ばかりであった。これまでのコンサートのように観客のほとんどが若者であった時とは明らかに違ったのである。
まるで彼らは、エルヴィスのショーの横でやっているサーカスのつけたしに出席しているかのように、人々は単なる好奇心からやって来たのである。
そこには、鋭く叫びたてる女の子と過激なファンはいなかった。そこにいたのはスパンコール(装飾品)を飾った年輩で中流階級のギャンブラーだった。
最初の数ショーの後、エルヴィスはコメディアン“シェキー・グリーン”よりも下の2番目のプログラムに落とされた。
最初の週が終わるまでに、フロンティアは彼の契約を破棄することに同意した。
ラスヴェガスを出発すると同時に、エルヴィスは、10年間は二度とこの町で演奏しないと誓った。
エルヴィスがラスヴェガスにいる間に1つ良いことがあった。それは、黒人バンド「フレディー・ベル&ザ・ベルボーイズ」の歌と演奏を見に行ったことだった。彼らは、1953年に“ママ・ソートン”が歌ってヒットした「ハウンド・ドッグ」の歌詞に「ユー・エイン・ネバー・コート・ア・ラビット、 ユー・エイン・ノー・フレンド・オブ・マイン」のフレイズを付け足して歌っていた。
それに影響を受けたエルヴィスは、以後自分のショーで「ハウンド・ドッグ」を歌うときはその歌詞を付け足すことを決めた。
エルヴィスがショーの最後にそれを使い始めるとたちまち人気が出た。
この歌は、リズム&ブルース歌手「ウィリー・マエ“ビッグ・ママ”ソートン」のためにジェリー・リーバーとマイク・ストローラーが1952年に書いた作品であった。
1956年7月2日、エルヴィスはジョーダネアーズをバックコーラスに従えて「ハウンド・ドッグ」をRCAスタジオでレコーディングをした。B面に「冷たくしないで」を録音して発売された。「ハウンド・ドッグ」はビルボード・ヒット・チャート28週間チャート・インし、最高2位まで上昇した。また「冷たくしないで」はナンバーワンとなリ、このレコードは1956年だけで600万枚以上売れたのであった。

音楽の世界でトップになり、テレビでも視聴率ナンバーワンをとったエルヴィスが、エンタテイメントの領域でまだ進出していないのは、映画であった。
マネジャーであるパーカーは映画関係書の注目を集めようとハリウッドの映画業界紙に広告を出した。もちろんエルヴィスの成功と人気をハリウッドの映画関係者が見逃すわけがなかった。
数ヶ月後、パラマウント映画プロデューサー“ハル・ウォリス”のスクリーン・テストを受けるためにハリウッドへ飛んだ。
ウォリスはすぐに、エルヴィスと3本の映画を撮ることにサインした。パラマウント社は最初の映画出演に10万ドル、2本目に15万ドル、3本目に20万ドル支払うことに同意した。
エルヴィスは、興奮しながらも不安ではあるが映画制作に挑戦することになった。
本当に演技ができるかどうか確信はないが、それにも関わらず映画俳優になることへの期待でワクワクしていた。
映画に出演する事は、歌っているときの彼のイメージから思いっきり変わるであろうことはエルヴィスも分かっていた。
歌うことしか知らないエルヴィスが、映画界に入ることにより彼のキャリアも人生も変化していくことを彼は少しずつ感じていたのであった。

写真:エルヴィス初の映画出演「ラブ・ミー・テンダー」の撮影の合間に撮ったもの。

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  [38] 不運な出来事  

サリヴァン・ショーの出演後、マネジャーのパーカーは、プレスリーのテレビ出演料を5万ドルから30万ドルに引き上げた。その結果、1960年に軍隊を除隊して戻って来るまでテレビに出演する事はなかった。
それにも関わらず、1956年はエルヴィス・プレスリーにとって大躍進する年であった。

彼はメイジャー・レコード会社RCAとの取引に署名し、そして、彼のレコードはビルボード・チャートの主要3部門でトップに立つと共に、ラジオで最も多く流されたレコード歌手もエルヴィスであった。また、定期的に行われる彼のコンサートのチケットはすべて売り切れた。

彼は十代の男の子(ティーンエイジ・ボーイズ)の反逆の役割をするモデルとなり、十代の女の子(ティーンエイジ・ガールズ)の淫らな想像をさせるアイドルであった。
そして、すべてが最高の視聴率となるテレビの歴史上最も多くの人々が見たエンタテイナーだった。
貧しくても、もがきながら奮闘して歌い続けたエルヴィス・プレスリーは、1年も経たないうちに、新しい音楽「ロックン・ロール」のキングとなりミリオネアー(大富豪)になったのである。

しかし、1956年、エルヴィスは一つの失敗をした。パーカーがラスベガスのニュー・フロンティア・ホテルで4月23日から2週間出演する契約をすることになっていた。1950年代のラスベガスは、ニューヨークに次いで2番目に大きなショー・ビジネスの町だった。パーカーは、ヴェガスでセンセーションを巻き起こすと思った。
ところがこの契約は、不運な災難を引き起こすこととなった。

写真:1956年の年末に撮ったもの。

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  [37] サリヴァンが異例の声明を発表  

サリヴァンの「腰から下は映さない」という「検閲」は、プレスリーをこれまで以上に有名にした。
上半身だけを撮影するということは、サリヴァンが今の論争を無視して、今まで通り全身を撮ることよりも、視聴者を悩まし惹きつけるものだった。
エルヴィスは、いつも通りのパフォーマンスで腰を動かせた。そして、スタジオの観客は気が狂ったように叫んだ。
しかし、自宅でテレビを見ている視聴者は、エルヴィスの上半分だけしか見ることが出来なかった。しかし、スタジオの観衆の叫びによって、彼らはかなりワイルドな何かが下の方で行われているに違いないということを知っていた。
ここでエルヴィスは、「ハウンド・ドッグ」「ラブ・ミー・テンダー」「ハートブレイク・ホテル」「冷たくしないで」「トゥー・マッチ」と「マイ・ブルームーン・ターンズ・トゥ・ゴールド・アゲイン」そして「ピース・イン・ザ・ヴァレー」の7曲を歌った。

ショー終了後、エドはエルヴィスにさよならを言うためにステージに出て、そして観衆に向かって次のように話した。

「私はこれが本当の礼儀正しい立派な男の子であるとエルヴィス・プレスリーと国に言いたかったのです。そして、大御所、一流のタレント、有名人等が我々のショーに出演していますが、これほど楽しい経験はこれまでありませんでした」。

サリヴァン自身が自発的にこの声明を言ったのかどうか、あるいは、トム・パーカーが「エルヴィスの腰から下は映さない」ことに対する返礼として「交渉したか」どうかは不明なままであった。


写真:サリヴァン・ショーに出演前のエルヴィスとエド・サリヴァン。真ん中の女性は正体不明のファン?

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  [36] テレビでは、ヒップの撮影を禁止された  

プレスリーの裏番組で、その夜、テッド・マックのオリジナル素人番組「全国アマチュア・タレント選手権」が放送されていた。
そのショーの決勝進出者の中に、ロカビリー歌手のジョニー・バーネットがいた。ジョニーは、以前エルヴィスが務めていた会社“クラウン・エレクトリック社”で一緒に働いていた仲間だった。(*ジョニー・バーネットは、日本でも「片目のジャック」「夢見る恋」等のヒット曲で知られている)

エルヴィスが10月28日に2回目のサリヴァン・ショーに出演をしたとき、司会者であるエドは新しい「ロックンロールの帝王」を紹介するために舞台上にいた。しかし、彼はテレビ撮影では決してエルヴィスと話そうとはしなかった。
しかし、サリヴァンは、エルヴィスが初出演した映画「ラブ・ミーテンダー」の監督であるロバート・ウェッブとインタビューした。
エルヴィスは「ハウンド・ドッグ」「冷たくしないで」「ラブ・ミー・テンダー」「ラブ・ミー」そして「ハウンド・ドッグ」を歌った。その後、ミリオン・セラーとなった「ラブ・ミー・テンダー」の“ゴールデン・レコード”が贈呈された。

エドサリヴァン・ショーの3回目の出演は、1957年1月6日で、おそらく彼の最も悪名高いものであった。
サリヴァンは視聴率ではとても高い評価を得たことを喜び、自分のショーに若いロックンローラーが出演する事によって、重要なマスコミからの注目を浴びた。
しかし、プレスリーのライブパフォーマンスでの明白な性的関心を少し心配するようになっていた。
エルヴィスの揺れるヒップとドンドンいう骨盤は、その時メディアの見出しの格好の材料となった。
国中のPTA、そして教会と市民グループは、激しく抗議した。
サリヴァンは、エルヴィスが何かを彼のパンツに詰め込んでいて、それを若い女の子に向かって振っていたという噂にひどく気にかけるようになった。
そこで、最終的にサリヴァンは、エルヴィスのウエスト(腰)から上だけを撮影するように命令した。そして、うまくすべての「骨盤の問題」を避けたのであった。


写真:サリヴァン・ショーで歌うエルヴィス

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  [35] エド・サリヴァン・ショーで驚異的な視聴率82.9%  

あのショーに出て良かったことは、エド・サリバンの注目度を増したことだった。
サリヴァンは、エルヴィスの観客動員力をもはや無視することができなかった。
スティーブ・アレンはその夜、テレビ視聴率55パーセントを獲得したのに対して、サリヴァンは15パーセントしかなかったのである。

それで、プレスリーに対して「私のショーに彼が出演する事はない」と以前に宣言したにもかかわらず、サリヴァンは彼と3回の出演契約を結んだのだった。
例によって、エルヴィスのマネジャーであるトム・パーカーは、手強い交渉者であることを証明づけた。

エルヴィスは3回の出演料として、50,000ドルを受け取った。今までに、テレビのバラエティー・ショーでこれほどの高額を受け取ったタレントは誰もいなかった。
テレビは若いレコード・スターにとって最も重要な会場であった。そして、エド・サリヴァン・ショーは、テレビ・バラエティー・ショーの頂点であった。
サリヴァンは、元新聞のコラムニストで、日曜日のゴールデンタイムの夜の時間帯を支配していた。
プレスリーのサリバン・ショーの最初の出演は、1956年9月9日であった。
サリバンは、8月6日、コネチカット州のシーモアにほど近いところで車と正面衝突するという大事故を起こしたので、彼自身はショーに出ることが出来なかった。
その日は、チャールズ・ラーフトンが、ホストとしてサリヴァンの代わりに出演した。
エルヴィスの歌は、ニューヨークとハリウッドを結び中継で放映され、「冷たくしないで」「ラブ・ミー・テンダー」「レディー・テディー」そして「ハウンド・ドッグ」の4曲を歌った。
この日のショーのゲストはエルヴィスの他に、ドロシー・サーノフ、エーメン・ブラザーズ、ザ・ヴァガボンズとインディアン・ヴォーカリストのアムル・サニが出演した。
プレスリーのサリヴァン・ショー初出演の評価は、びっくり仰天するほどの視聴者数だった。
ショーの視聴率が何と82.9パーセントに達したのである。これはテレビ所有者の5人中4人が見たことになる。
この驚異的な数字は、断然テレビ史上で最高のものと評価された。1964年にビートルズが、エド・サリヴァン・ショーに出るまでこの記録は破られることがなかった。


写真:エド・サリヴァン・ショーで「ラブ・ミー・テンダー」を歌った時のエルヴィス・プレスリー

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  [34] プレスリーのファンがスティーブ・アレンに抗議  

プレスリーが、再びテレビ出演する事を要請するために、オクラホマ州タルサのディスク・ジョッキー、ドン・ウォーレスが、先頭に立って嘆願書を集め提出したのであった。
アレンは、そのことを誇らしげに、喜びながら発表したのであった。
この後すぐに、エルヴィスは、ジョダネアーズをバック・コーラスに従えて「アイ・ウォント・ユー、アイ・ニード・ユー、アイ・ラブ・ユー」を歌った。
次に、カーテンが開きバンドのメンバーが現れた。
舞台はカントリー&ウェスタン調にセットされ、アレンはカウボーイ・ハットをかぶって出てきた。
アレンは観客に向かってジョークとユーモアを交えながら話し続けた。
その後すぐに、エルヴィスは「ハウンド・ドッグ」を熱唱した。

ショーの後半に、アレンは、コメディー・タッチの寸劇を企画した。
「レインジ・ラウンドアップ」と言うタイトルで、「ガラガラヘビのグリフィス」役をアンディ・グリフィス、そして「大草原の小さな花、サボテン・コカ」役でアイモジーン・コカと共演させた。 
エルヴィスは「タンブルウィード・プレスリー」(*タンブルウィードは、ヒユの類で枯れると根から折れて吹き散らされる砂漠の雑草)役を演じた。
この寸劇は、貧しい南部人とカントリー・アンド・ウエスタン音楽をからかおうとした一連のとりとめのない、支離滅裂なジョークで構成されていた。
「あのような形でショーに出演したことを残念に思う」そして「自分の本来のイメージが損なわれなかったことを願っている」と後でエルヴィスは語った。

アレンが求めていた評価は期待通りだった。その夜同じ時間帯で放映された「エド・サリヴァン・ショー」の視聴者評価は14.8で、アレンのショーは20.2だったのである。しかし、エルヴィスに恥をかかせる彼の試みは逆効果となった。
次の日、エルヴィスのファンが「本当のエルヴィス・プレスリーを求めている」と書かれた看板をもってスタジオの前で抗議した。
あのショーが放映された後の数週間にわたって、怒りの手紙がアレンのところに届いた。
“ニューズウィーク誌”のジョン・ラードナーは、エルヴィスに味方した。そして「アレンの倫理は、最初から疑わしかった。公正な裁判官なら言うだろう、死体のような白のチョウネクタイと燕尾服を彼に着せることによって、アレンはプレスリーを汚し傷つけた」と書いた。


写真:スティーブ・アレン・ショーに出演中のエルヴィス。
  左からイモジーン・コカ、スティーブ・アレンとプレスリー 



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  [33] スティーブ・アレン・ショーに出演  

エルヴィスが「神話」とみなした者の偽りを暴こうとしないでブラブラしていることが出来ないメディア・パーソナリティーがいた。それは、テレビ番組のホストを務めるスティーブ・アレンであった。
アレンは、粗くて教養がないようなロック&ロールを見て批判するある程度の教養人で自分の流儀(スタイル)を持っている皮肉屋でもあった。
1956年、彼は8:00から9:00の時間帯でゴールデンタイムと呼ばれる日曜の夜の番組で、エド・サリバン・ショーとの視聴率争いを戦っている最中であった。
スティーブ・アレン・ショーの第2弾(以前に、1950年から1952年までNBCでアレンのショーを放送していた)は、ゲストとしてキム・ノバック、サミー・デイビス・ジュニアとビンセント・プライスを迎えた。ちょうどエルヴィスが出演する1週前が初放送日であった。
同時に、「田舎者のロック&ローラー」をからかいながらも、アレンは視聴率を上げるためにエルヴィスを自分のショーに出演させることを決めたのであった。

エルヴィスのマネジャー、パーカーは、当初エド・サリヴァン・ショーに出演させるために契約しようとエドに申し入れていた。
しかし、「私には、どんな代価を払っても私のショーで彼が出演することはないだろう」とサリヴァンは、この時きっぱりと言い放った。

1956年7月1日、ショーの舞台裏から小さな音ではあったが咳払いが聞こえた。その直後に、アレンが今日のゲストであるエルヴィス・プレスリーの紹介をはじめた。
我々の次のゲストは、みなさんも良くご存じのあの“エルヴィス・プレスリー”です」と言ったとたんに観客から悲鳴と共に大きな拍手が鳴り響いた。
悲鳴と拍手の鳴りやんだ後アレンは、エルヴィスがメディアに報じられたことについて話しはじめた。
「ある人は、一方的に解釈しているように思われる、またある視聴者は、違った解釈をされている。いろんな見方があるでしょうが、我々はお客様にすばらしいショーを見ていただくためにやるだけです。家族全員が見ることができて、楽しむことができる、そして、我々はいつも通りにショーをやるだけです。そして、今夜、新しいエルヴィス・プレスリーを見ていただきます。みなさんはエルヴィスの最初の復帰ステージと呼ぶかも知れませんが、新しいエルヴィス・プレスリーを紹介出来ることにすごい喜びがあります」

歓喜と悲鳴に迎えられて、エルヴィスが舞台中央に登場した。
多くの観客はがっかりした。予想に反して、燕尾服と青のスエードの靴で着飾ったフォーマル・イブニング・スーツで現れたからである。


写真:スティーブ・アレン・ショーに燕尾服姿で登場したエルヴィス

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  [32] 集中攻撃と非難を浴びるエルヴィス  

エルヴィスは、数々の道徳的な論争に関して時々疑うようであった。「私は、人々に対して悪い影響与えていると言うことが少しも見えて来ないのです。私は、理解できない。つまり、ロックンロール音楽が、どのように大人達に対して反抗的な態度をとらせると言うのだろうか?」
聖職者の何人かが言っているように、テレビと音楽評論家は「エルヴィスが人間の姿をした悪魔」であると必ずしも思っているというわけではなかった。その代わりに、多くは彼を「才能がない悪戯っ子」とみなしました。
ミルトン・バール・ショーの公演の後、ニューヨーク・タイムズの批評家ジャック・グルドは「識別できる歌唱力がない」とプレスリーについて書いた「・・・言葉に言い表せないほどに退屈でうんざりさせるもの・・・彼の1つの特徴は、これまでは主に下品なストリップショーの金髪の可愛い子ちゃんが踊るものと同じような特徴を持った体の動きである」
また、批評家のジョン・クロスビーは、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙に投稿し、エルヴィスを「口では言えないほど才能はなく低俗である」と言い、ニューヨーク・ジャーナル・アメリカのジャック・オブライアンは「彼を見ていると、ストリッパーとモルトミルク(麦芽粉乳と牛乳を混ぜてアイスクリームに風味を加えた飲み物)を同時に見ているようだ」と書いた。
それに加えて「よろめいている悪ガキ」、「吼える田舎者」、「南の地震」、「バリトンのマリリンモンロー」のようないくつかのあからさまなあだ名を付けられた。そして「エルヴィスはペルヴィス(骨盤)」が定着していった。
この最後のあだ名に対してプレスリーは次のように反応した:「大人から聞いたことを、子供達が真似て表現するということと同じようなものです」
これらの攻撃と非難にもかかわらず、エルヴィスのレコード売り上げは上昇し続けた。
1956年9月までに、RCAはエルヴィスのレコードが1000万枚以上売ったと発表した。
今までの反抗的なイメージの報道や非難に対して、エルヴィスは、謙虚に礼儀正しく報道陣と向き合った。
「私は、今回起こったことに対してとても感謝します」そして「冗談ではなく、私の声は普通の声です。人々が見に来るものは、私がそれをどのように使って歌いお見せするかということです。私が歌う間じっと立っているならば、私は死人同然です。それなら、私は、トラックの運転手に戻った方がいいです」と言いきった。

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  [31] 人気と共に非行者の烙印を押される  

1956年までのプレスリーの人気は、主にアメリカの南で南西部に限られていた。
しかし、コンサートやミルトン・バール・ショーのテレビ出演、そしてレコードがヒット・チャートのトップの座を獲得する事によりエルヴィスは、アメリカ国中の人々の脳裏に否応なしに焼き付くことになるのであった。
そしてまた、アメリカのほとんどの若者が新しい音楽の才能がある救世主としてエルヴィスを受け入れはじめた。
しかし、多くの大人たちは今まで培ってきた国の価値感とモラルに反する危険な脅威とみなしたのであった。
宗教指導者が、公然と「エルヴィスがティーンエイジャーに対していかに腐敗させる悪影響を与えている」かについて話すというこれまでにはなかった事態も起こったのであった。
彼らは、エルヴィスがアメリカの若者に取り返しのつかないダメージを与える前に、厳しく躾る必要がある非行者と決めつけたのであった。
ライフ誌は、1956年プレスリーの特集記事で「種類の異なるアイドルと言い、ひどく市民のリーダーや聖職者と一部の両親との間で不穏な状況となった」と報じた。
ニューヨークのグリニッジビレッジ地区にあるセント・ジョンズ・エスピコカル教会のチャールズ・ハワード・グラフ師は、プレスリーを「セックスの托鉢僧」とまで言った。
中西部の一部のラジオ局は、プレスリーのレコードとロックンロール音楽の放送を禁止した。この状況下で、皮肉にも多くの主流アメリカ人がプレスリーを彼らの子供たちにとって悪影響を及ぼす者とみなした。
プレスリーの荒々しさの裏側には、本来の素朴な人間性があった。年上の人には敬語を使う礼儀正しい、正直で誠実な青年であった。また、ペプシ・コーラのような炭酸の強い飲み物は飲まず、特別な時にだけ吸う葉巻以外は一切たばこは吸わなかった。
エルヴィスは21才で、もうすぐにミリオネアー(百万長者 *現在なら億万長者)になるけれど、郊外で質素な家に両親と共に住んでいた。
エルヴィスにとって家族は最も大切なものであった。彼は母との強い絆があり、死ぬまで彼の近くで家族を養い続けることだった。
娯楽のために、エルヴィスは映画、遊園地とローラースケートリンクに行くのが好きでした。しかし、人気が出て認知度が上がるに連れて外出も難しくなってきた。
彼が映画を見るか、ローラースケートに行きたい時は、営業時間が終了した後に劇場またはローラースケート場を貸し切って、彼の友人全員を招待した。
エルヴィスの余暇は、徹夜して遊び日中に寝るというパターンで、彼のこのような過ごし方は生涯の習慣になった。

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  [30] ティーンエイジャーのアイドル  

1956年4月3日、サン・ディエゴに停泊している米国軍艦「ハンコック」のデッキからテレビ中継された。エルヴィスは「シェイク・ラトル・アンド・ロール」「ハート・ブレイク・ホテル」そして「ブルー・スエード・シューズ」の3曲を歌った。
そのショーでは、短いコメディー寸劇にも登場した。“アンクル・ミルトン”がエルヴィスの双子の兄弟役を演じた。
このショーのテレビ視聴者は、おおよそ4600万人に達したと報道された。
サン・ディエゴでのテレビ中継と同年6月5日放送の「ミルトン・バール・ショー」の出演で、エルヴィス・プレスリーはしっかりと世間の目に焼き付かれた。
プレスリー現象は、もはや無視することができなくなってきた。
テレビはエルヴィスを追っかけ放送した。そして、正に「アメリカのリビング・ルーム(お茶の間)」の真ん中で、腰をくねらせた彼独特のパフォーマンスを撮り続けた。
エルヴィス・プレスリーは、その時すでに、影響力を持ち始めていた。
ハートブレイク・ホテルとサン・レコード時代の曲が再リリースされポップ、カントリー、そしてリズム&ブルースの3部門を独占したのである。
エルヴィスは、定期的にテレビ出演し、コンサート・ツアーも拡大していった。アメリカ中のティーンエイジャーたちがプレスリー・マニアに巻き込まれていった。
彼のコンサートはいつもチケットが完売となった。コンサートでは、泣いたり、叫んだり殺気立った十代の女の子でいっぱいだった。
プレスリーの些細なパフォーマンスで失神する子もいたぐらいである。エルヴィスは、抑圧された1950年代のティーンエイジャーたちのアイドルなった。
彼はアメリカ南部で育った貧しい少年だったが、それをバネにしてスターの座を勝ち取った。
エルヴィスは6フィート(180センチ)で背が高くて、ヘアー・スタイルはグリースで固めたオールバックで、危険なほどにハンサムであった。
ステージでは、エルヴィスは唇を歪め、腕を振って、腰を回して歌うセクシー・シンギングで観客を魅了した。
厳しく躾られ「抑圧された時代」に育ったティーンエイジャーによって賞賛され、歓迎された。
エルヴィスは派手な衣類、キャデラック、そしてオートバイとロックンロールが好きだった。
彼は、反抗期である十代の象徴になったのである。
十代の男性は彼を賞賛し、そして、十代の女の子は彼を敬愛し心酔していった。
エルヴィスの多くのファンは、彼の家の外で待ち構えていた。そして、垣根の上に昇り窓からじっと彼の来るのを見つめていた。
コンサートが終わると、待ち構えていたファンに揉みくちゃにされることはいつものことであった。

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