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アメリカで発売されたドーナツ盤のレコード。1950−60年代に米国で発売されたもので既に廃盤になっているレアものです。
40−50年前のレコードですので、ラベルがすり減っているものもありますが、当時に発売されたレコードですので大変貴重なレコードです。
尚、アメリカのシングル盤にはジャケットはありません。レコード袋に歌手の写真が印刷されているものもたまにありますが、日本のシングル盤のようなジャケットは付いていません。
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<アメリカン・ピンナップ・ガールズ>
アメリカが不景気に見舞われていた1930年代中頃から絶頂期の60年代中頃まで著名なアーティストによって描かれていたアメリカン・ピンナップ・ガールズ。
セクシーで官能的、グラマーで魅惑的、そして洗練された女性たちが描かれているこれらのピンナップは、アメリカ人の恋人、アメリカン・ドリーム・ガールとしてもてはやされた。
見事な色彩感覚とお茶目な色気を感じさせるこれらのピンナップは、1930年代当時、不景気に喘いでいたアメリカ人の憧れの的となった。
当時の広告、ポスター、カレンダー等に使われた。
ピンナップ(PIN-UP)とは「魅力的な美人の写真を壁などにピンで留める」ことからこのように呼ばれるようになった。
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1958年11月に結成された黒人5人組みのグループ。リーダーのヴァージル・ジョンソンが高校の先生をしていた時、教え子のマーク・プリンスとクレアランス・リグスビーの2人がデュエットで歌っているのを聴いて、ヴォーカル・グループを作ってはどうかと提案した。先生であるヴァージルがリーダーとなり、さらに教え子であるロバート・サースビーとウィリアム・ソロモンを誘いこの5人でヴェルヴェッツが誕生した。卒業後の1961年、モニュメント・レコードの経営者フレット・フォスターに認められてレコードを吹き込みナイト・クラブに出演したり各地を演奏旅行に出かけ、ブルック・ベントンやルース・ブラウンなど一流の歌手と一緒に舞台にでるなど忙しい日々を送ることとなった。そこで吹き込んだ「Tonight(could be the night)」(日本語タイトル“夢のお月様”)がヒット。一躍人気グループの仲間入りを果たした。日本では1963年に「愛しのラナ」でデビュー。これが大ヒットなった。因みにこの「愛しのラナ」は、ロイ・オービソンがこのグループのために作った曲。ロイ自身もこのレコードを出している。「夢のお月様」はその後の1964年に日本でヒットした。
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1950年・60年代のアメリカンポップスを中心に、すでに廃盤になっている名曲など貴重盤や名盤を取り揃えております。50/60年代は、アメリカの黄金時代と呼ばれていました。この時期がアメリカン・ポップスの全盛期でもあった。その当時に青春時代を過ごした人に取っては大変懐かしくノスタルジックな想いに浸ることでしょう。また、この時代に生まれ育っていない人には全く古さを感じさせない新鮮な感覚を味わって頂けることと思います。この時代のレコード・ジャケットは大変素晴らしいデザインのものが多く芸術的価値がある作品が多く見られます。当時発売されたレコード・ジャケットを見ながらショッピングをお楽しみください。
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1935年ミシシッピー州ツペロ生まれ。1954年
「ザッツ・オーライ・ママ」 でデビュー。B面はブルーグラス・ミュージックの創始者 “ビル・モンロー” の大ヒット曲 「ブルームーン・オブ・ケンタッキー」。
これが地元でヒットし注目を浴びた。デビュー当時、エルビスはカントリー・ミュージックと関わりがあった。ファースト・ステージではカントリー・シンガーのスリム・ホイットマンと共演。
また、当時の人気番組カントリーのラジオ・ショー 「グランド・オール・オプリー」 に出演し、ハンク・ウィリアムス、パッツィ・クライン、ハンク・スノー、エディー・アーノルドなどカントリーの有名シンガーと共演していた。カントリー・ソングの中心地であるナッシュビルやエルビスの地元、メンフィスがあるテネシー州で活躍していたことも影響してカントリーと関わったと思われる。
その後RCAに移籍、1956年に発売された 「ハートブレイク・ホテル」 が大ヒット。エルビス最初のミリオンセラーとなる。全世界の若者を熱狂の渦に巻き込んだエルビスの全盛期の始まりであった。同じ56年にはエルビス初の映画
「ラブ・ミー・テンダー」 にも出演。その中で歌われた 「ラブ・ミ−・テンダー」 もミリオンセラーを記録。 「ハウンド・ドッグ」 「冷たくしないで」
「監獄ロック」 など立て続けに大ヒットを飛ばして行った。
絶頂期の10年間でミリオンセラー・レコードは50曲以上。出演した映画は33本。数々のナンバーワン・ヒットとミリオンセラー・レコード記録は、ビートルズが出てくるまで誰もなし得なかったことである。この偉大なキング・オブ・ロックン・ロール“エルヴィス・プレスリー”は1977年8月16日午後3時30分に天国へと旅だった。詳細は
「エルヴィス・プレスリー物語」 を見てください。
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当時、全米の女性に最も人気があると言われていたアンディー・ウィリアムスは1930年10月3日アイオワ州ウォール・レイクに生まれた。3人兄弟と共にコーラス・グループ「ウィリアムス(フォー)・ブラザース」を結成してクラブやテレビのショーに出演していた。後に家族がカリフォルニアに移転してからもグループの活動は続いた。
1952年、兄弟達の結婚によってグループを解散。独立してソロ・シンガーとなる。その後、スティーブ・アレンのテレビ番組「トゥナイト・ショー」に出演したのがきっかけで、ケイデンス・レコードと契約。「カナダの夕陽」「バタフライ」などのヒットを飛ばした。
1961年コロンビアに移籍後もヒット・チャートにランクインするヒットを出した。1963年に映画主題歌をタイトルにしたLP「酒とバラの日々」と「ムーン・リバー」がミリオンセラーとなった。翌年(1964年)「アンディーと歌おう(ザ・ワンダフル・ワールド・オブ・アンディー・ウィリアムス)」が3枚目のミリオンセラーとなる。
1963年NBC-TVでレギュラー番組「アンディー・ウィリアムス・ショー」を持ち人気を不動のものとした。アンディーの代表的な曲は「カナダの夕陽」「バタフライ」「ハワイの結婚の歌」「モア」「知りたくないの」「恋はリズムにのせて」など多数ある。
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やさしい歌声で耳に心地よく響くポップスを聞かせてくれたカーペンターズは、リチャードとカレンの兄妹のデュオ。二人は米国コネティカット州ニュー・ヘイブンで生まれた。リチャードは1946年10月15日、カレンは1950年3月2日生まれ。1963年頃、リチャードは楽器演奏トリオを組み、ニュー・ヘイブンにあるバーやクラブに出演していた。家族でロサンゼルス郊外のダウニー市に移った後、1965年に妹のカレンが小さなレコード会社“マジック・ランプ”と契約していたこともあって、可憐のバッック演奏を務めた。この時、カレンは「アイル・ビ・ユアーズ」と言うタイトルのシングル・レコードを出している。
その後、以前組んでいたバンド仲間でベースを弾くウェス・ヤコブスとカレンとでジャズ・インストゥルメンタルのリチャード・カーペンター・トリオを結成。カレンはドラムを担当した。1966年にハリウッド・ボールで行われたバンド・コンテストで優勝。RCAレコードと契約したが、売り込む材料が何もなく契約を解除された。音楽を勉強したいとヤコブスは大学に戻りグループから抜けた翌年の1968年、彼らのデモテープを聞いたA&Mレコード会社の創設者“ハーブ・アルバート”は、兄妹デュオとして契約し、1969年にデビュー・アルバム「オファリング」をリリースした。
アルバムの中からビートルズのナンバーを美しいハーモニーで歌った「涙の乗車券」がシングルカットされ、全米ヒット・チャート54位まで昇った。1970年にリリースした「遙かなる影」が4週連続のナンバーワン・ヒットとなり一躍スターダムにのし上がった。その後「愛のプレリュード」「シング」「イエスタデイ・ワンス・モアー」「オンリー・イエスタデイ」「スーパー・スター」など大ヒットを連発した。「遙かなる影」「トップ・オブ・ザ・ワールド」そしてマーベレッツやビートルズのヒットナンバー「プリーズ・ミスター・ポストマン」の3曲がナンバーワン・ヒットとなった。
ジャンルを問わずうまく歌いこなす彼らはイギリスのグループ、ハーマンズ・ハーミッツのヒット曲「見つめ合う恋」をカバーしてイギリスのヒットチャート・トップ10ヒットを飛ばした。70年代後半からヒット曲に恵まれなくなった。80年代前半、カレンは徐々に体調を崩し始めた。「拒食症」に犯されていた。1983年2月4日に心臓発作で倒れ、両親のホームタウン、ニュー・ヘイブンの病院にて、32才の若さでこの世を去った。その後、リチャードはカーペンターズのヒット曲を12枚のCDにするためのスーパーバイザーとして「カーペンターズ名曲集」を完成させた。
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1957年3月にサンフランシスコで結成された。当時、モダン・フォーク・グルークの中では最も人気があり、一番稼いでいたフォーク・グループと言われていたほどの売れっ子だった。1958年に出したデビュー曲「トム・ドゥーリー」(映画「拳銃に泣く」の主題歌)が大ヒット。当時300万枚以上も売り上げたと言われている。
その後も「ティワナの監獄」「MTA」「グリーン・バック・ダラー」など数多くのヒットを飛ばした。最初のメンバーはデイブ・ガード、ボブ・シェーン、ニック・レイノルズの3人だったが、61年にデイブ・ガードが抜けて、その後「カンパーランド・スリー」と言うグループからジョン・ステュアートが加わった。彼が参加するまでの間「ウィスキーヒルズ・シンガーズ」を作って歌っていたことがある。彼らは南太平洋や西インド諸島の民謡に深い興味を持ち研究していたそうです。グループ名もジャマイカ島にある港町キングストンから取ったものとい言われている。
彼らが開くコンサートはいつも大入り満員で、大学祭やフォーク・フェスティバルなど各地へ公演に回った。ミネアポリスで公演があった夜、3人は一晩のうちに7753枚の写真にサインしたと言うエピソードがあるぐらい彼らの人気はすごかった。
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1940年インドのラックノウで生まれる。本名ハリー・ロジャー・ウェッブ。父親の仕事の関係で幼少期をインドで過ごす。8才の時にイギリスに帰国。ハイスクール時代からロックンロールに夢中になり、友人とロックバンド「ザ・ドリフターズ」(後に“シャドーズ”と改名)を結成。17才の時にノリー・パラマーにオーディションのチャンスをもらい見事合格しイギリス・コロンビアの専属となった。
1958年、18才の時にデビュー曲「ムーヴ・イット」「スクール・ボーイ・クラッシュ」をレコーディング。これがヒットし続いて「リヴィング・ドール」「ハイクラス・ベイビー」「ダイナマイト」とヒットを連発。イギリスのプレスリーといわれるほどの人気シンガーとなった。「若さでぶつかれ」「ワンダフル・ライフ」「サマー・ホリデイ」「若き非行少年の群れ」「アラジンと魔法のランプ」「ファインダース・キーパーズ」など映画にも多数出演した。
日本でクリフが有名になったのは遅く、1962年から63年にかけてヒットした「ヤング・ワン」(映画「若さでぶつかれ」の主題歌)が日本でのデビューとなる。その後、「サマー・ホリデイ」「ラッキー・リップス」「オン・ザ・ビーチ」「レッツ・メイク・ア・メモリー」「バチャラー・ボーイ」「淋しいだけじゃない」「コンスタントリー」「グッバイ・サム」「幸せの朝」などヒット曲を連発。当時、イギリスと日本では最高の人気シンガーだった。
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1938年12月12日にニュージャージー州ニューアークで生まれる。本名はコンセッタ・ローズマリー・フランコネロ。イタリア系アメリカ人。幼い頃から多芸な彼女は、3才の時に父親から買い与えられたアコーディオンを持ってタレント・スカウト・ショーに出た。その時にアメリカ人らしいコニー・フランシスに変えたらとアドバイスされた。コニーは学校の成績も良く、高校時代には大学への奨学金を含む数多くの賞を獲得した。大学では討論や心理学において優秀な成績を収めた。高校時代に学校音楽劇(ミュージカル)の台本を書き演出もするほどの活躍。12才の時にテレビのショー「スター・タイム」や「モーニング・ショー」にも出演。そして、アーサー・ゴッドフリーの「タレント・スカウト」に出て注目を浴びた。
音楽出版社のデモテープの吹き込みからスタートしたコニーは売り込みに失敗。最後にやっとMGMレコードと専属契約をした。その時彼女は15才だった。しかしヒットに恵まれなかった。18才の時に最後の望みを託して吹き込んだ「フーズ・ソーリー・ナウ」が大ヒットしミリオンセラーとなった。その後「カラーに口紅」「フランキー」「エヴリバディーズ・サムバディーズ・フール」とミリオンセラーを連発。名実ともに女性ナンバーワンの地位を獲得した。映画「ボーイ・ハント」「渚のデイト」にも出演。この頃人気は絶好調を迎えた。
バラード、ロック、フォーク、ラテン、ジャズとレパートリーの広さと歌のうまさは定評がある。語学力にも優れており、「バケイション」「夢のデイト」「大人になりたい」「可愛いベイビー」「ロリーポップ・リップス」など彼女のオリジナル曲を日本語で歌っている曲が数多くある。また、弘田三枝子、伊東ゆかり、中尾ミエなど多くの日本人歌手がコニーの歌をカバーした。外国人タレントの中で最も人気のあった女性歌手の一人である。1960年代に日本で数回公演をしている。
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オーストラリア出身の4人組でメルボルンで結成されたフォーク・グループ。最初は男性4人のポップ・グループとして、学生時代の仲間が集まりクラブやコヒー・ハウスで演奏していた。ある日メンバーの一人が結婚のためにグループを去り、ジュディスがメンバーに加わった。メンバーは、リーダーのエイソル・ガイ(1940年1月5日ヴィクトリア出身)、ブルース・ウッドリー(1942年7月25日メルボルン出身)、キース・ポトガー(セイロン・コロボ出身)、そして紅一点のジュディス・ダーハム(1943年7月30日メルボルン出身)の4人で地元で活躍していた。
その後、オーストラリアにキングストン・トリオ、ピート・シガーなどフォークの大物歌手がやってきた。彼らの歌を聴いて感激した4人はポップからフォークへと転換した。自分たちの実力を試したいと思った彼らは、1964年にイギリスへ渡った。
そこで、プロデューサーのトム・スプリングフィールド(女性歌手、ダスティー・スプリングフィールドのお兄さん)と出会い成功の道を歩むこととなった。イギリスで初めてのシングル・レコードは、彼らを見いだしたトム・スプリングフィールドの作詞作曲による「恋はたったひとつ」。それが1965年2月に全英ヒット・チャートのナンバーワンに輝いた。このレコードはアメリカでも発売されヒットした。その後「ジョージ・ガール」の大ヒットによりシーカーズはスターダムにのし上がった。
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1941年2月17日、コネティカット州ハートフォード生まれ。地元のロックビル・ハイスクールを卒業。その後ウォード・エレクトロニクス・スクールで学んだ後、バンドを結成しクラブや放送局で歌っていた。ハイスクール時代からグリー・クラブでソロをつとめたりして、音楽面での才能を発揮していた。クラブで歌っている所をレコード会社のユナイテッド・アーティストの関連会社であるミュージカー・レコードが彼をスカウトし専属契約した。
プロとして最初に認められたのは作曲の才能だった。日本で一躍有名にした「ルイジアナ・ママ」をはじめ、リッキー・ネルソンのヒット曲「ハロー・メリー・ルー」など数多くのヒット曲を書いている。彼の歌を認めたのは、プレスリーのヒット曲を多く書いている作曲家のアーロン・シュレイダーだった。3オクターブと広い音域を持つ彼の独特の唱法でヒット曲を連発した。バラードからロックまで幅広いジャンルをこなす。数あるヒット曲の中でも「イフ・アイ・ディド・ノット・ハブ・ア・ダイム(もし10セントがなかったら)」は、私のお奨めの1曲。
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1945年2月3日スコットランドのオーチャイルトリーの生まれ。ジョニーが7歳の時に一家はカナダのオンタリオへ移住した。彼が12才の時に叔父からギターをプレゼントされたのが、歌手になるきっかけとなった。その後“フォーティーンズ”と言うバンドを結成し近所の花形となっていた。
1960年に家族の事情でアメリカのオハイオ州クリーブランドで住むことになった。その数ヶ月後、「ギター・プレイヤー求む」の新聞広告をみて応募するが落選した。ところが、歌のほうが認められてMGMと契約した。2曲レコーディングしたがヒットしなかった。父親が彼の忙しいスケジュールを心配してジョニーと話し合い、高校を卒業するまでは歌をやめると決めた。1962年9月卒業後まもなく、キャップ・レコードと契約を結んだ。
1963年2月にジョニーの自作「ミスター・ベース・マン」でデビュー。これが大ヒットとなり一躍彼の名声を高めた。その後「ティーンエイジ・ヘブン」「ダム・ダム・ディー・ダム」「恋のティアワナ」「僕のマシュマロちゃん」などのヒットを放った。
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「キューティー・パイ」で日本デビューし、その甘い声とマスクで一躍人気者になったジョニー・ティロットソンは1940年フロリダ州ジャクソンビル生まれ。子供の頃、ラジオから流れてくる歌を覚え口ずさむほどに歌が好きだったジョニーは、ハイスクール時代にバンドを結成した。
その後、地方のテレビに出演している所を見ていたテネシー州ナッシュビルの音楽出版社の社長に認められてレコード会社を紹介された。そのケーデンス・レコードのディレクターは彼の歌を聴いてレコーディングを決定。1958年に「夢見る瞳(ドリミー・アイズ)」でデビュー。この曲がヒット。
その後「涙ながらに」「ポエトリー」「夢の枕を」などヒットさせた。1963年に日本でのデビュー曲「キュティー・パイ」が大ヒット。続いて「プリンセス・プリンセス」「「ポエトリー」「すてきなガール・ハント」をはじめ多数のヒット曲を出し一躍人気シンガーとなった。その後「涙くんさようなら」「ユー・アンド・ミー」など日本の曲を日本語でレコーディングしヒットさせた。元々カントリー・ミュージック出身のシンガーであるが、日本ではポップ・シンガーのイメージが強かった。
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日本で「街角ボーイ」とニックネイムが付くほど“街角”と付くタイトルの歌が多かったデル・シャノンは、1939年12月30日にミシガン州グランド・ラビッツで生まれた。少年時代から音楽が好きで、14才の時にギターを習い始めた。デルは、レイ・チャールズやエラフィッツ・ジェラルドに惚れ込んで歌手に憧れた。
1957年、ハイスクールを出て軍隊に入隊しドイツに駐留。プレスリーの物まねでギターを抱えて歌い駐留隊の名物男となった。軍の音楽コンテストに出て優勝した。除隊後は、クラブやダンス・ホールで歌い始めた。ある日デトロイトにあるプロダクションからスカウトされ、ラジオやテレビに出演するようになった。
1961年に自作の「悲しき街角」でデビュー。これがその年の4月に全米ナンバーワンとなり、一躍スターの座を射止めた。裏声を使ってシャウトする独特の歌い方でティーン・エイジャーの人気を高めた。続けて「花咲く街角」「さらば街角」「街角のプレイ・ガール」「恋する街角」「スイス娘」など相次いでヒット曲を出した。数年ヒット曲のなかったデルが1965年に出した「太陽を探せ」が大ヒットし奇跡的にカムバックした。日本では飯田久彦が「悲しき街角」、坂本九が「花咲く街角」をカバーしてヒットさせた。
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全世界のポピュラー音楽界にその名を残すナット・キング・コールは1917年3月17日にアラバマ州で生まれイリノイ州のシカゴで育った。19才の時に兄エディーのジャズ・コンボで歌い始める。1939年自らトリオを結成。ジャズ・ピアニストとして認められたが、1943年に歌手として独立した。「モナリサ」「トゥ・ヤング」「プリテンド」など甘いハスキー・ヴォイスとジャズ唱法を基礎にした個性的な歌い方でファンを魅了し、数多くのミリセラー・ヒットを出した。
1953年から約10年間はヒット曲から遠ざかっていた。「ブロッサム・フェル」「センド・フォー・ミー」「ルッキング・バック」の3曲ぐらいのヒットに終わった。しかし、1962年に放った「ランブリング・ローズ」の大ヒットにより、ナット・キング・コールが再びヒット・パレードにカム・バックした。このミリオンセラー・ヒットの後「いとしのロンリー・ハート」「涙のラバー」「ナッシング・ゴーズ・アップ」と立て続けにヒット・チャートに登場するという快挙を成し遂げた。
これによりキャピタル・レコード社も大躍進のきっかけを作ったといわれている。また、彼はラテン・ナンバーもレパートリーに取り入れ「カチート」「ソラメンテ・ウナ・ベス」「キサス・キサス・キサス」などスペイン語で歌い新境地を開拓した。1960年と63年に来日公演を行った。
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1939年3月13日、ニューヨークのブルックリン生まれ。リンカーン・ハイスクールでピアノと作曲を学び、16才の時にニューヨークのラジオWQZR放送局主催の音楽コンテスト「ミュージック・タレント・オン・アワー・スクール」で特別賞を獲得した。その時の審査員長だったルービン・シュタインの紹介で、ジュリアーノ音楽院に進学した。
ハイスクール時代からポピュラー・ソングの作曲をはじめ、友人のハワード・グリーンフィールドの詞にメロディーを付けていった。これを音楽出版社に売り込み始めた。ある時「アルドン音楽出版社」のアル・ネヴィン(元スリー・サンズのリーダー)の目に留まり、同社の専属作曲家として契約した。コニーフランシスのヒット曲「間抜けなキューピット」などを書いた。自分でも自作の歌を歌いたいと思っていた。リトル・アンソニー&インペリアルズが歌った「恋の日記」のできが悪かったのをきっかけに、レコーディングのチャンスが回ってきた。
1958年、19才の時にRCAから自作の「恋の日記」でデビュー。最高位14位だった。以来、「カレンダー・ガール」「悲しきの慕情」(全米1位)「おお、キャロル」(高校時代のガールフレンドで、シンガー・ソング・ライターのキャロル・キングに捧げた歌)「小さな悪魔」「すてきな16才」「恋の片道キップ」「悲しきクラウン」など数多くのヒット曲を連発。エルヴィス・プレスリーに次いでRCAビクターのドル箱スターとなった。1960年代に日本で公演を何回か行っている。日本人好みのメロディーで外国男性タレントの中で最も人気のあった歌手の一人である。日本人歌手がこぞって彼の歌をカバーした。ちなみに、キャロル・キングは「ロコモーション」などのヒット曲を書いたことでも有名。
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1934年テネシー州ナシュビルで生まれた。当時エルビスと人気を分かちあっていた。エルビスの「動」、パットの「静」といわれるぐらい物静かなタイプのパットは敬虔なクリスチャンだった。エルビスとは対照的にバラードを得意とし、その甘い声とマスクで聴衆を魅了したパット・ブーンはティーン・エイジャーに圧倒的な人気があった。ラブ・バラード、ポピュラー・ソング、ロックン・ロール、カントリー、R&B、ゴスペル・ソングなどレパートリーの広いシンガーである。
「砂に書いたラブレター」「アイル・ビ・ホーム」「四月の恋」「涙のムーディー・リバー」などのラブ・バラードから「スピーディー・ゴンザレス」「悲しきカンガルー」などのテンポの早い曲まで歌いこなし数多くのミリオンセラー・ヒットを連発。清純な歌声と甘いマスクで多数の映画にも出演した。
当時、2,3曲のヒットを飛ばしても、パット・ブーンは歌手としてやっていけるのか自信がなかったと次のように言っていた。「僕は教師になるつもりだった。レコーディングが終わった時も、これは趣味だと考えていた。テネシーで敬虔なクリスチャンの中で育ったから、自分の信仰や良心を持ちながら芸能界でやっていけるものかもわからなかった。700万枚のレコードを売って、300万ドルの契約を交わした時にやっと、やれるかも知れないと思い始めたぐらいだ」と語っていた。
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サーフィン・ミュージックの草分け的存在のビーチ・ボーイズは、兄弟と従兄弟で編成されたグループ。リーダーのブライアン・ウイルソン(1942年6月20日生まれ)一家はカリフォルニアのホーソン市に住んでいた。父のマレーは、ソングライターで、ブライアンが1才の頃から父親の歌をハミングしていたと言われている。
弟のデニス(1944年12月4日生まれ)とカール(1946年12月21日生まれ)、そして従兄弟のマイク・ラブ、そしてブライアンが高校の時にフットボール・チームで一緒だったアル・ジャディーンと5人でバンドを結成。1961年、両親がバケイションで出かけている間に、父親の音楽出版社、ハイト&ドリーン・モーガンにレコーディングの相談に出かけた。モーガンはオリジナル曲にしか関心がなかった。5人の中でただ一人サーフィンをやっていたデニスがサーフィンをテーマに曲を作ることを提案した。彼らはそのオフィスですぐに曲を作り始め、家に持ち帰って完成させた。両親がおいていったお金は楽器のレンタルに消えてしまっていた。
レコーディングスタジオで「サーフィン」と「サーフィン・サファリ」(ブライアンとマイク・ラブの共作)を吹き込んだ。キャンディックス・レーベルからリリースが決まった。次に必要なのがグループ名だった。ホーソン・ハイスクールでは、カール&ザ・パッションズと名乗っていたが、その時はザ・ペンドルトンズと言っていた。討議の結果、キャンディックスのプロモーターが出した案が通って、ビーチ・ボーイズに決まった。
「サーフィン」はローカルではヒット(カリフォルニア・ヒット・チャート3位)したが、全米チャート75位止まりだった。キャンディックス側は、他の作品には関心がなくなり次作のリリースを拒否した。62年のに暮れに、父親のマレーがキャピタルにテープを持ち込んで、契約に成功した。それ以降ビーチ・ボーイズの快進撃が続いた。「サーフィンUSA」「ファン・ファン・ファン」などのヒットを連発。それに続く「アイ・ゲット・アラウンド」は、7枚目のシングルで全米ナンバーワン・ヒットとなった。
他に「リトル・ホンダ」「ダンス・ダンス・ダンス」「グッド・バイブレーション」「バーバラ・アン」「アミューズメント・パークUSA」など数多くのヒットを飛ばし、ビーチ・ボーイズと言えばサーフィンと来るように、ビーチ・ボーイズ・サウンドを確立した。1963年にはアメリカはじめイギリスでもトップ・ヴァーカル・グループとなった。デビュー曲の「サーフィン」から始まった彼らのレコード・セールスは、1960年代に1500万から2000万枚と言われるほどの売り上げを記録した。
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1960年代前半までアメリカン・ポップスが主流を占めていた洋楽の世界に、突如と現れたイギリスのロック・グループ「ザ・ビートルズ」。1962年に「ラブ・ミー・ドゥ」でデビュー。その後、音楽界において数々の偉業を成し遂げ、エリザベス女王から勲章までもらった。また彼らの音楽やその活動を通して、様々な影響を世界中の人々に与えた。
メンバーは、リダー格のジョン・レノン(1940年10月9日生まれ)、ポール・マッカトニー(1942年6月18日生まれ)、ジョージ・ハリスン(1943年2月25日生まれ)、リンゴ・スター(1940年7月7日生まれ)の4人グループ。デビューから1970年に解散するまでに作られた200曲以上のオリジナル作品のうちジョンとポールが作詞作曲を担当。ジョージも加わった作品も多くある。
アマチュア時代、年代は確かではないが、1955から56年頃に当時10代のジョンは「クォーリーメン・スキャッフル・グループ」と言う名前でバンドを組んでいた。1957年ポールと運命的な出会いをする。翌年ポールの紹介でジョージと出会い、ビートルズのオリジナル・メンバー3人が揃った。ビートルズの序曲の始まりである。
当時、リヴァプール市内にある無名のクラブに出演していた。この時、グループ名を「ムーン・ドッグス」とか「ムーン・シャイナーズ」と名乗っていたと言われている。1961年にドイツのハンブルグに遠征。帰国後、リバプールにあるクラブ「ザ・キャヴァーン」に出演。連夜、満員盛況の人気ぶりで若者のハートを魅了した。1962年4月、EMIレコードのプロデュサー、ジョージ・マーティンと出会う。契約を結び「ハウ・ドュ・ユー・ドュ・イット」をレコーディング。しかし、メンバーもディレクターもOKを出さず、市販されなかった。後にこの曲は1963年に、ゲイリー&ペイスメーカーによってイギリスのヒットチャートで1位を獲得した。
心機一転のためメンバーは、グループ名を「ビートルズ」に変更。1962年9月、ビートルズは再びバーロフォン(日本ではオデオン・レーベル)のレコーディング・スタジオで「ラブ・ミー・ドゥ」を録音。これが記念すべきビートルズのデビュー曲となった。この時のレコーディングでドラムを担当していたのは“ピート・ベスト”で、彼のスティックさばきが下手で見るにみかねたプロデューサーのジョージ・マーティンが、ロリー・ストーム&ハリケーンズと言うロック・バンドでドラムを叩いていた「リンゴ・スター」を呼び寄せたのである。その時、リンゴはドラムの音をカバーするためにタンバリンを叩いていた。このデビュー曲は、同年10月に発売されリヴァプールでヒットした。
続く1963年に出した「プリーズ・プリーズ・ミー」が大ヒット。1963年「フロム・ミー・トュ・ユー」1964年「抱きしめたい」「シー・ラブズ・ユー」と立て続けに大ヒットを飛ばし、人気を不動のものとした。1964年にアメリカ公演を行い、本国イギリスを凌ぐ人気でビートル・マニア現象を世界に巻き起こした。映画「ビートルズがやって来るヤア・ヤア・ヤア」が公開されると人気に拍車がかかり、ついに世界制覇を果たした。1966年には日本公演を行って、ファンを熱狂させた。
1967年8月にマネジャーのブライアン・エプスタインが死去。これを機にグループ間のバランスが崩れはじめ、各自バラバラに活動するようになっていった。1969年1月最後のライブ演奏をアップルレコード社の屋上で行った。1970年4月にポールが脱退宣言をした。そして、ビートルズのラスト・アルバム「アイビー・ロード」を制作した後、解散となった。解散後も、多大な影響を与え続けている。
1980年12月8日、ジョン・レノンは熱狂的なファンによる凶弾に倒れた。享年40才。偉大な音楽家の痛ましい死であった。その後、2001年11月29日にジョージ・ハリスンが肺ガンのため死去。58才だった。4人のメンバーのうち2人がいなくなった後も、今なおビートルズは生き続けている。
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ピーター、ポール・アンド・マリーは、ニューヨーク出身のピーター・ヤロウ、ミシガン州出身のポール・ストゥーキー、ケンタッキー州ルイーズビル出身のマリー・トラヴァースの3人組のモダン・フォーク・コーラス・グループ。PPMの愛称で親しまれ、フォーク・ソングを都会的センスでモダンな形で表現した。美しいハーモニーと共に人々の心を打つ歌い方は、フォーク・ソングを愛する彼らの姿勢から知ることが出来る。
偶然にも3人とも1937年生まれ。ピーターは、ニューポート・フォーク・フェスティバルに参加したりして各地で演奏旅行をしていた。ポールは、グリニッジ・ヴィレッジで漫談をやっていた。マリーは、ブロードウェイでミュージカル女優として活躍していた。3人は、アレパート・グロスマン(ボブ・ディランやイアン&シルビアなどのマネジャーをしていたフォーク・ソング界で有名な人物)の引き合わせによってトリオを結成。当初ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジで演奏活動をしていた。彼らは、レコーディングに何日もかけて完全に納得するまでは終わらせないという信念を持っていた。時には、数週間もかけてレコーディングしたこともあった。トリオを組んだ最初の頃は、レパートリーの曲を完全なものにするまでに半年以上を費やした。この熱心な練習が身を結び、1962年、レモン・トゥリーがヒットし一躍その名を高めスポット・ライトを浴びるまでになった。
その後「ハンマーを持ったら」「セトル・ダウン」などのヒットを出した。1963年に「パフ」が大ヒット。それによってPPMは、スターの座を獲得した。知的で洗練されたPPMの歌は、日本人の心を捕らえいまでも根強い人気がある。日本で公演するたびに円熟味を増す素晴らしいフォーク・ソング・トリオです。代表的な曲に「パフ」「500マイルもはなれて」「ハンマーを持ったら」「レモン・トゥリー」「悲惨な戦争」「虹と共に消えた恋」など多数ある。
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「シェリー」で一躍スターダムにのし上がった”フォー・シーズンズ”は、フランキー・ヴァリー(リード・シンガー、1937年生まれ)、ボブ・ゴーディオ(1942年生まれ)、ニック・マーシー(1935年生まれ)、トミー・デ・ヴィート(1936年生まれ)の4人グループで、揃ってニュージャージー州の出身。ボブを除く3人は約6年間「フォー・ラバーズ」と言うグループで歌っていた。その時「アップル・オブ・マイ・アイズ」「ザ・ガール・イン・マイ・ドリーム」のヒットを飛ばしていた。ボブはその頃「ロイヤル・ティーンズ」にいたが、フォー・ラバーズの1人が抜けたので、その後釜として参加した。そして”フォー・シーズンズ”と新しいグループ名にした。
ボブが入ったことによって、これが結果的に大成功を収めることとなった。というのはボブの作曲の才能が大いにものをいったからである。フォー・シーズンズのデビュー曲「バミューダ」はあまりヒットしなかった。しかし、1962年にボブが作った第2弾「シェリー」(1962年9月に1位獲得)が大ヒット。その後に出した「恋はやせがまん」(1962年11月に1位獲得)と第3弾の「恋のハリキリ・ボーイ」(1963年3月に1位獲得)も大ヒットした。「シェリー」に続いて3曲立て続けに全米ナンバーワンを獲得すると言う記録を作った。
しばらくヒットのなかった彼らは、ヴィージェイからフィリップス・レコードに移籍。「悲しきラグ・ドール」「ビッグ・マン・イン・タウン」「悲しき朝焼け」「ウォーク・ライク・ア・マン」「キャンディー・ガール」「レッツ・ハング・オン」などヒットを連発した。その後、リード・ヴァーカルのフランキー・ヴァリーはソロに転向してヒットを数曲出している。
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1958年にアメリカ・ワシントン州のワシントン大学で知り合った学生仲間が結成したフォーク・ソング・グループ。キャンパス・フォークの元祖的存在。メンバーは、マイク・カークランド(バンジョーとギター)、ディック・フォーリー(テナー・ギター)、ジョン・ペイン(ギター)、ボブ・フリック(ベース)の4人。
1960年に放ったデビュー曲の「グリーンフィールズ」が大ヒットし一躍スターになった。美しいハーモニーと洗練された歌、そして全く気取りがない人柄の良さで定評がある。フォークだけにとどまらず、ポップスも取り入れて幅広いレパートリーを持っている。1966年にビートルズの曲を歌った「ブラザース・フォー・ビートルズを歌う」を発売。ブラザース・フォーの魅力を再発見出来るレコード。ヒット曲に「グリーンフィールズ」「風は激しく」「七つの水仙」「サンフランシスコ・ベイ・ブルース」などがある。1962年に初めて来日、64年にも来日し数回公演を行っている。
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ブレンダ・リーの本名は“ブレンダ・メエ・タープレー”。1944年12月11日ジョージア州アトランタの生まれ。5才の時に、ニューフェイス・コンテストで優勝した。番組のプロデューサーは、子供を雇わない方針だったがブレンダがハンク・ウィリアムスの「ヘイ・グッド・ルッキン」を歌うのを聴いてOKを出した。こうしてラジオやテレビに出演するようになった。
その後、カントリー歌手の“レッド・フォリーに認められ、フォーリーの全米ネット番組「カントリー&ウェスタン・ショウ」に出演。ペリー・コモ・ショーやエド・サリバン、スティーヴ・アレン・ショーなどにもゲスト出演した。1956年にデッカ・レコードと契約。最初のレコードは「ジャンバラヤ」だった。1960年に「スィート・ナッシング」がヒットし人気があがって来た。
15才の時にレコーディングした「アイム・ソーリー(邦題:ごめんなさい)」が大ヒット。全米ナンバーワンとなる。当時のプロデューサー、オーエン・ブラッドレーによると「デッカのお偉方が15才の少女に愛の詩を歌わせるのはどんなものか」と言う意見があって発売を数ヶ月見合わせることになった。しかし、発売されると見る見るうちにヒット・チャート1位の座に輝いた。続いて「乙女の青春(原題:アイ・ウォント・トゥ・ビ・ウォンテッド)」も全米1位を獲得。
その後「エモーション」「ダム・ダム」「フールス・ナンバーワン」「ルージング・ユー」などいずれもトップ・10入りするヒットを連発。コニー・フランシスと並んで、女性歌手ナンバーワンといわれるほどの人気スターとなった。その後、イギリスに進出。「グラス・イズ・グリーナー」「アズ・ユージュアル」「イズ・イッツ・トゥルー」をヒットさせた。ブレンダ最後のヒットはカントリーのシンガー・ソング・ライター、クリス・クリストファーの作品「ノーバディー・ウィンズ」でカントリー・チャートではナンバーワンとなった。デビュー当初に吹き込んだ「ダイナマイト」がヒットし、その歌い方から“ダイナマイト娘”と言うニックネイムも付いたほどのパンチの聴いた歌い方で、カントリー、バラード、ロック、ゴスペル、ジャズなど巾広いジャンルを歌いこなせる美人シンガー。
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1955年「オンリー・ユー」のミリオンセラー・ヒットで一躍その名を高めたプラターズは、1953年に黒人男性4人組のグループとしてスタート。プロデューサー、サミュエル・バック・ラムがマネジャー兼ディレクターを引き受け、ヒット曲を連発した当時の5人のメンバーに改めた。トニー・ウィリアムス(リード・テナー)、デヴィッド・リンチ(セカンド・テナー)、ポール・ロビ(バリトン)、ハーバート・リード(バス)、それに紅一点のゾラ・テイラーを加えた5人編成。
マネジャーのバック・ラムの作品「オンリー・ユー」が大ヒット。彼ら最初のミリオンセラーとなる。最初この曲は、フェデラル・レコードから出したがあまりヒットしなかった。マーキュリーに移って再録音したところ、シアトルのDJボブ・サルターの耳にとまり、全国的なヒットのきっかけを掴んだのである。続けて「ザ・グレイト・プリテンダー」「マジック・タッチ」「マイ・プレイヤー」「トワイライト・タイム」「煙が目にしみる」などミリオンセラーを連発、一躍最大の人気グループとなった。
1960年にトニーが独立。ソニー・タナーに変わったが、レコーディングの時はトニーがリード・テナーで歌っていた。超低音のハーバード・リードが歌った「ユー・ネバー・ノー」「16トン」もヒットした。2回来日して公演を行った。現在のプラターズは、全くメンバー入れ替わっている。
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1950年3月ペンシルベニア州ランスデールの生まれ。本名マーガレット・バッタヴィオ。芸名は、愛称ペギーと3月生まれだったのでマーチとした。当時ペギーは身長が145cmだったので、プロデューサーがリトルを付けて“リトル・ペギー・マーチ”と名付けた。芸名からリトルをはずしたのは、彼女が16才の時だった。
1963年4月に「アイ・ウィル・フォロー・ヒム」が全米ナンバー・ワンとなる大ヒット。一躍スターダムに躍り出た。「アイ・ウィル・フォロー・ヒム」がナンバー・ワンになった時、ペギー・マーチは13才1ヶ月と13日で、15才7ヶ月と7日で「アイム・ソーリー」が全米1位になったベレンダ・リーの記録を破り、最年少記録を樹立した。
5才の時に、タレント・コンテストに合格し地元のラジオやテレビに出演するようになる。その後、RCAのオーディションを受け62年の春に契約。シングルレコードをリリースした後、プロデューサーの元へ「アイ・ウィル・フォロー・ヒム」が届いた。作曲は、フランスの音楽家でオーケストラのリーダー、ポール・モーリアが“デル・ローマ”のペン・ネイムで書いたもの。すでにペトゥラ・クラークが「愛のシャリオ」の名でレコーディングし、フランスでヒットしていた。この曲に英語詞を付けてペギーがレコーディング、1963年2月に発売されたのである。
その後、「プリンセスではないけれど」「さよなら初恋」のヒットを飛ばし、ヨーロッパや日本で公演ツアーを行った。日本へ来たときにはレコーディングも行い「いつでも夢を」「霧の中の少女」「忘れないは」「なぜだか判らない」など日本の曲を日本語で吹き込んでいる。69年にマネジャーで夫のアーニー・ハリスとドイツに渡り12年間滞在した。79年頃から作詞作曲を始め、2曲のヨーロッパ・ナンバーワンを獲得している。ヨーロッパから帰国後、温暖な気候の南カリフォルニアに居を構えた。
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1941年7月30日、カナダのオタワ市で生まれた。少年時代から音楽に興味を持ち、ハイスクール時代にヴォーカル・グループ「ボビー・ソックサーズ」を結成してアマチュア・バンドとして活躍。すでに12才の時に作曲を始めたと言われている。
1957年にABCパラマウントの専属となり、自作の「ダイアナ」でデビュー。これがミリオンセラーとなり、続いて「君は我が運命」「クレイジー・ラブ」「パピー・ラブ」「マイ・ホーム・タウン」「電話でキッス」など立て続けに大ヒットを飛ばし一躍トップスターの座を射止めた。当時「ダイアナ」は発売されて数年で700万枚以上のレコードが売れたと伝えられている。ポールが「ダイアナ」を書いたのは彼が15才の時で、弟や妹のベビー・シッターだった3才年上の女の子への片想いを詩につづったものだった。後でメロディーを付けた「ダイアナ」が世界的な大ヒットとなった。
1958年9月に日本初の公演が大成功。1962年RCAに移籍。「愛してほしいの」「ボサノバでキッス」「ラブ」などヒットを連発。1963年にファッション・モデルのアン・ド・ゾゲブとパリで結婚。ポールはソング・ライターとしても有名で、フランク・シナトラの「マイ・ウェイ」、アルマ・コーガンの「恋の汽車ポッポ」、本人も出演した映画「史上最大の作戦マーチ」もヒットした。他にコニー・フランシス、アネット、ボビー・ライデルなどにも歌を作ってきた。映画「非情の街」「お嬢さんお手柔らかに」にも出演してしていた。数々のヒット曲を飛ばしたポールは当時「フランク・シナトラのような歌手になりたい」と言っていた。その彼は、いまでもステージに立って歌っている。
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1940年5月8日生まれ。アメリカ・ニュージャージー州出身。本名はエリック・ヒリアード・ネルソン。テレビ番組「陽気なネルソン」で親子・兄弟一家で出演。幼少の頃からラジオ・テレビの人気者だった。
1957年、リッキーが16才の時、ファッツ・ドミノが歌った「アイム・ウォーキング」をレコーディング。これがヒット・チャート2位にランクされた。これをきっかけに、俳優から歌手に転校した。その後「ティーンエイジャーズ・ロマンス」がヒット。インペリアルに移って「ビ・パップ・ベイビー」(1957年)「ストゥッド・アップ」「プアー・リトル・フール」「淋しい街」(1958年)「イッツ・レイト」「スイーター・ザン・ユー」(1959年)「トラベリン・マン」「ハロー・メリー・ルー」「エバー・ラビン」(1961年)「ヤング・ワールド」「ティーンエイジ・アイドル」(1962年)「イッツ・アップ・ツー・ユー」(1963年)「フォー・ユー」(1964年)等立て続けにヒットを飛ばし、数多くのミリオンセラー・レコードを出した。
甘いマスクと声で歌うリッキーは、当時エルヴィス・プレスリー、パット・ブーンとともにティーン・エイジャー達から絶大な人気を誇っていた。映画「ライフルと愛馬」でディーン・マーティンやジョン・ウェインとも共演した。1963年、人気絶頂の時に結婚。レコード会社もインペリアルからデッカに移った。1972年に出した「ガーデンパーティー」が最後のヒットとなった。1985年、アイオワ州へ公演に行く途中飛行機事故で45才の若さでこの世を去った。
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リズム・アンド・ブルースを歌わせたら右に出るものはいないと言われるぐらい人気のあったソール・ミュージックの巨匠レイ・チャールズは、1931年9月23日ジョージア州生まれ。6才の時に失明し、16才で両親を亡くしたと言う悲惨な経験を持つ彼は、盲学校で音楽を学び、ピアノやサックスの腕を磨いた。15才で学校を出て、ダンス・ホールなどでピアニスト兼歌手としてプロの音楽活動を開始した。17才でコンボを結成しクラブやテレビに出演、リズム・アンド・ブルースの流行に乗って人気を高めた。
ゴスペルの影響が強いブルースを持ち味として、ブルースとゴスペルをミックスした独自の音楽を作り上げ1955年「アイ・ガッタ・ウーマン」がヒット。その後「ホワッド・アイ・セイ」「我が心のジョージア」などミリオンセラー・ヒットを連発。1962年には、カントリー・ミュージックを歌いそのLPレコード「レイ・チャールズ、カントリー・アンド・ウェスタンを歌う」はミリオンセラーとなった。このアルバムからシングル・カットされた「愛さずにはいられない」(ドン・ギブソンの自作自演曲)も、全米ナンバーワン・ヒットとなった。
1989年にはサザン・オールスターズの「いとしのエリー」のカバー曲「エリー・マイ・ラブ」をヒットさせて話題を呼んだ。グラミー賞を12回受賞。1986年には、アメリカ音楽界に長年に渡って貢献したとして、ケネディー・センター賞を故レーガン大統領から受けている。ちなみに「我が心のジョージア」は、ジョージア州の州歌になっている。黒人音楽の全盛の基礎を築き支えて来たソウル・ミュージックの巨匠は、2004年6月10日、カリフォルニア州ビバリーヒルズの自宅で肝臓疾患に伴う合併症のために死去。73才で天国へと旅だった。
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